追悼 黒田稔さん(元浜学園副学園長・元成基学園理科部長・元芦研単科〈理科・社会〉教室主宰)

 
黒田稔さんの奥様から喪中欠礼の知らせが来た。黒田稔さんが、今年(2010年)8月に亡くなったというのである。
 最後の詳しい話はまだ聞いていない。聞いてどうなるのか、亡くなった者が、戻ってくるわけではないようだが、否、戻ってくることもあるかも知れない。7月の中頃、黒田さんは、私の仕事のことで電話をくれていた。いつもと変わらぬ話しぶりだった。その仕事の話はうまくいかなかったのだが、そのときの黒田さんの声からは、年の暮れになって、こんな知らせがくるような予兆は、全く受け取れなかった。
 黒田さんとは、話したいことがあった。黒田さんが何かと言うと芦研単科教室の一期生のことに触れることがあった。そこには「塾」というものの原点のような雰囲気があったからである。黒田さんも、今年(2010))の3月ころ、一度会いましょうか、と言ってくれていた。
 この9月には、たまたま黒田さんと私の授業をうけていた生徒の成長した成人ぶりの消息を、私は耳にしていた。成績がとくによいわけではないが、とびっきり陽気で、黒田さんが私を引き入れてやっていた教室を楽しくしてくれる生徒で、おりにふれ黒田さんが懐かしがっていた生徒だった。単なる受験用の塾ではなく、子供の知的関心を開く場所を作りたいと念願してはじめた教室だったが、それに息吹をあたえてくれた感じがしたなあ、と言っていた生徒だった。その生徒の近況も黒田さんに教えてやろうと思った。でも、そのときはもう黒田さんは、この世の人ではなかったのだ。
 私は、黒田さんとは、1980年代後半に、入試用の学習塾・予備校業界で知り合った。黒田さんは、既に浜学園興隆期の理科主任として実力名声共に備えた人であった。浜学園が絶頂かと思われていたとき、私立高校入試で抜群の実績を誇っていた神戸立志社に移籍した。同時に中学入試の模擬試験の老舗である芦屋教育研究会のアドバイザーのような仕事も受けていたようである。

 黒田さんは、大阪大学理学部(化学)を卒業して、大学院へ進学し、そのころ、アカデミックな話題を、新聞などによく提供していた阪大蛋白研に、無給の研究員のような立場で参加していたのだろうとは想像するだけである。簡単な経歴は、1997年頃の浜学園のパンフレットでみたことがある。1995年の阪神大震災のあと、黒田さんは、芦研単科教室から、浜学園副学園長に就任していた。当時の浜学園は、前田氏などの希学園設立グループが抜け、教学体制の軸たる存在が欠落していたのである。黒田さんから、すぐ「副」の字が取れると思っていた。当時の「学園長」は、希グループに与しなかった、あるいは希グループが期待していなかった人である。
 その算数か数学を担当していた当時の学園長は、かつての学園長だった前田らの専横下にも耐えた結果、「学園長」の地位についていた。「学園長」が耐え忍んでいた時代、つまり、前田の時代、黒田さんは理科の主任として幅をきかせていた。そのころ「学園長」の苦衷や事情も黒田さんは汲んでやっていたようであった。また「学園長」が、あの悪名高きアンケートの低評価の結果、受けることになったビデオ撮影の上での「指導」を、黒田さんにうけたこともあったようである。「浜」に復帰したとき、黒田さんは、かつての業績と、オーナー夫妻から自らにかける絶大な信頼とから、浜学園に残っていた面々が、どのような思いで、黒田さんを迎えているのかなど、頓着しなかったのだろう。当時の学園長など、すぐに退職するくらいに思っていた節がある。しかし、黒田さんから、なかなか「副」はとれず、「学園長」もそのままだった。

 小学生や中学生の理科を教えるのは難しいという。黒田さんは、蛋白研で生物化学研究の最前線にいたという自負心もあり、自身の幅広い関心からもあって、理科教育については、業界での他の追随を許さなかった。芦研模試の西野氏もそれは認めていた。神戸立志社時代、代々木ゼミで化学の講師をして、大学入試速報作成スタッフに参加もしていた。そこは、確かに長けた連中の集まりで、黒田さんも必死だったらしい。しかし、その必死になるのが、なんとも言えない刺激だったようである。「出来る奴はなあ、ほんまに早い。圧倒的な早さで仕上げてなあ、他を見て回っている奴がいる。それでなあ、遅い他人のを見て、自分の間違いに気が付いて直しよるんや。」などと言って笑っていた。狭いところで王様になってしまわないようにしていたし、そういう激しい場が好きだったようである。自分も少しは、そういう場に入りながら、浜学園の旗をたてて、鹿児島ラサールなどへ、小学生の受験生の激励に出かけるのも嫌いなことではなかった。

 「ラテン語の勉強したいんやけどなあ。」と言っていたのは、いつの時だったか。1997年のころだったか、あるいは、それより前か。ニュートンの”Principia”を読んで、”力学”というものを考え直したいんやな、と言っていた。その後の2003年に山本義隆が『磁力と重力の発見』(全3巻みずず書房)を刊行し話題になった。山本義隆は、物理学畑の人間だったから、その科学史の大著も、それほど違和感はない。黒田さんが、テリトリーとするのは、化学、そして生物化学である。
 アレクサンドル・オパーリン『生命の起源』の邦訳が岩波書店から刊行されたのが1958年、大阪大学蛋白質研究所が発足したのが1958年だった。そのころ、黒田さんは、多感な中学生だったことになる。黒田さんは、大阪大学で、入学したのは基礎工学部だったが、教養課程を終わった段階で、理学部に編入した話は聞いた。入学試験も教養課程での成績も悪くなかったので、理学部へ変わることについての障碍はなかったようだった。蛋白研で師事していた教授の急死などもあって、蛋白研で係わっていたプロジェクトがなくなり、そこでの居場所がなくなったことを告げられたというような話を聞いた。
 蛋白研時代は、科学の世界の最先端を行っている自負心があったのだろう。私と出会ったときは、活動を特定のトピックに閉じ込めない知的活動と関心を、教育の分野で発揮していた。酒量は多かったが、飲まれることはなかった。
 黒田さんは、いろんな領域についての関心が強く、阿倍野界隈の案内人としても抜群の人だったが、絵や歌も上手だった。阪大では、混声合唱団か何かで、その同窓会に出かけることがあったように思う。1994年ごろ、かつて、黒田さんが浜学園で栄華を極めていたころ(理科主任時代)に行きつけだったという十三の店に立ち寄ったことがある。そこで、聞かされた歌は何だったか忘れたが、美事さに圧倒されたことだけは記憶している。

 ある夜の電話で、黒田さんが、保持していた浜学園の要職を、いきなり解かれたということを聞かされた。翌日、そんなに多くない荷物をとりに浜学園本部に行った黒田さんを迎えに行った。何があったのか、部外者には到底判りようがないが、今にも退くように思っていた当時の学園長が、いつまでもいるのが気がかりだったし、黒田さんが圧倒的に支持を得ていた、そして一番の理解者であったオーナー夫妻が亡くなったことが、黒田さんの境遇変化の基だったのだろう。
 私立中入試で、京都を中心とした大きな勢力であった成基学園の理科部長に、黒田さんが就任していると聞いたのは、それからどれくらいしてからだったか。丹波橋にある成基学園の知求館というところにいるからと、ご招待があった。「知求」は地球を洒落たものらしい。実験室など兼ね備えたもので、黒田さんが言っていた理科教育の場が、実現しそうであった。一番の上階は天文台にもなっていた。そのドームは、プラネタリウムのスクリーンにもなっていた。
 黒田さんは、得意そうに、新築のお城を案内する上昇期の城主のようだった。プラネタリウム投影機を調整している人も浜学園理科の元スタッフとのことだった。
 浜学園よりも立派なパンフレットもあった。難関中学・高校の入試「問題」の講評があった。成基学園では、御三家(洛南・洛星東大寺)と、それから同志社中学や立命館中学などへの合格者を大量に出していた。それらの学校としても、成基学園の講評は無視できないようであった。逆から言えば、その講評は、成基学園の力量も露わにしてしまうものであった。理科の講評は、流石に黒田さんが書いていた。早速に成基学園の看板の役割を果たしていた。社会科は、これまた、長年、成基の顔として活躍してきていた杉尾さんが書いていた。洛南高校付属中学の社会科は、今年(?)もまた、指導要領をはずしている。勉強する生徒のことを考えてフェアにやってほしい、と注文が付いていた。
 成基学園は、浜学園よりも抱えている生徒は多いという話であった。黒田さんは、浜学園で講師管理に威力のあった浜のアンケート方式を、成基学園へもちこんだ。成基学園が黒田さんの手で、一段と脱皮するのかと思った。浜学園からの電撃退場から、輝かしい回復を遂げ、飛躍すると思っていた。
 かねてより、浜学園は、いわば地場産業だが、日能研は全国展開をしている企業だ、もう希は眼中にない、とも言っていたいたからである。
 ところが、浜の黒田として、絶対的な自信をもっていたそのアンケートが、成基の黒田さんには、うまく作用しなかったらしい。詳しいことは判らない。体調がよくないこともあったらしい。数年したあと、連絡があったときは、成基学園は退いて、浜学園の相談役をやっているということだった。目障りとばかりに、浜学園から、黒田さんを追放した一人の、かつての学園長は、辞めて、同業であるが、個別指導系の企業に移っていた。
 黒田さんは、問題チェックとか、補習のクラスとか、いろんな仕事をこなしているようであった。大病もあったり、その後の治療もあったりして、第一線ではなかったようだった。
 最近は、その浜学園も退いて、家庭教師や、かつての教え子がやっている塾などを手伝っているという話であった。

 浜学園になあ、「算数・国語は、読み・書き・そろばん。ほんとの勉強、理科・社会」 と書いてあるんや。
 と黒田さんは、言っていた。いや、おれ(黒田)が書いたんや、そやろ、純粋数学するようになる者も、国文学をすることになる者もいるけど、結局は、理科か社会やろ、と言っていた。算数もな、もう問題のパターンが決まってくるから、ある程度の訓練で差がつかなくなるんや、ところが、ふつうの塾で教えることができるというのは、せいぜいが国語までで、理科や社会には手がまわらんのや、と言っていた。塾では、どうしても、算数の授業が中心になるようなので、難関校ほど、理科(それに社会科)のもつ意義を主張したかったのだろう。それよりも、多面的な複雑な自然現象社会現象を相手にする姿勢をなんとか、子供にも示したい、勉強というものの始まりを切り開いてやりたいという思いがあったのだろう。
 黒田さんとは、結構つきあったつもりだったが、聞いていたことでも忘れたり、理解できていなかったりしたこともあった。
 追悼しようと思ったが、すぐ行き詰まった。すぐ判ると思った、蛋白研での業績も判らなかった。自分との接触の範囲で、一応の輪郭は描いた。実は、芦研時代、黒田さんは、浜学園理科主任という過去の栄光を意識しながら、自負心から、自分は「生涯、一講師!」と言ったことがある。
 生涯、一講師!
 これは黒田さんの矜持からくる表現だ。
 黒田さんは、絵が上手だったことにも触れた。年賀状などにさらったと絵が描いてあることもあったが、授業での板書も上手だった。
 20年ほど前、神戸立志社の大教室で、私は、中学三年生を相手に社会科の授業をしていた。大教室の後ろには事務所があって、よく黒田さんは、教室の後ろで作業をしながら、人の授業を聞いていた。私が、最近の日本は、ボーキサイトを輸入しない、という話をしているとき、引き上げる途中の黒田さんが、「あのなあ、それ」と言って、黒板の端に「AlO」と書いて行った。みんなで大笑いした。
 黒田さんも、授業に参加したかったようだった。