三橋順子×日隅一雄 「web時代のメディアリテラシー」(『週刊金曜日』830号.2011.1.14.)

 
 文化史研究者三橋順子と弁護士日隅一雄の「政権交代でも変えられなかったメディア 世論をミスリードする報道」というタイトルの対談である。三橋が、「24時間テレビ」を例にあげて言っている。

三橋 ……結局、トランスセクシュアルを笑いものにしようと意図でのはるな愛さんの起用なんです。
あの二人(国分太一山口達也)が特別に差別的なわけではなくて、それがテレビ業界の常態なんです。
日隅 それと同じことは犯罪者にも言えます。犯罪者は何を書いてもかまわないしプライバシーを侵害してもかまわないと思って安心して叩く。両親を出して頭をさげる場面を撮りたい、ということと同じだと思うんですよね。お笑いで言えば、昔は政治家を笑いものにしたけれども、それがどんどん減って、大丈夫なところ、安全なところを笑うようになった。三橋 お笑い芸人でもすでにステータスを築いた人が、かけだしの芸人に無理難題を言ってやらせて、自分は視聴者と一緒に高見の見物で笑っている。こういう構造はある種の弱い者いじめで、それが子供たちのいじめの”手本”になっている部分があると思うんです。 

 このくだりには「弱い者を笑う構造がいじめのヒントになる」という見出しがあがっているところである。三橋が、差別やいじめの常態を述べたのに答えて、弁護士の日隅は、その問題は、犯罪者に対しても言えることだとする。三橋が、ステータスを築いた芸人が、立場の弱い芸人が難儀しているのを「高見の見物で笑っている」構造を指摘し、いじめの”手本”じゃないかとしている。
 ここまで、話していて、弁護士の日隅一雄は、裁判員制度も同じじゃないかと、どうして思わないのかと思う。日隅は、犯罪者に対する対応を問題にする。しかも、裁判員制度は、無罪の推定を受けている被告人に対して、裁判員(裁判官ではない)が高見から、「反省しとるのか!」と罵ったりするものである。ほとんどの被告人は、検察官による立証がなされたその上で、有罪を認めている者である。つまり、絶対に弱い立場のもの、自らが否定している者を見下して高見にいるのである。しかも、これが裁判中なのである。これが、「日本の(刑事)裁判」である。これほど、不法な、恥ずかしいことが、毎日行われているのに、弁護士として何も思わないのだろうか。弁護士会として、法曹を構成するものとして、メディアのリテラシーを問題にしているが、日本の法曹のリテラシーは、どうなのでしょう。
 検察官が公判を維持できるだけの証拠を集められなかった小沢一郎が、起訴される見込みだという。メディアがやったアンケートで、起訴されたら、辞職すべきという回答が多いという。証拠のないものを、「疑わしい」などという感触で、起訴し、議員辞職などということにも、危機感をもつべきだろう。


 「web時代のメディアリテラシー」のみだしは、「読み解く力も弱いが報道のレベルも低い」「ツイッターはつぶやき 議論するものじゃない」 「メディアには権力も逆らえない」と続く。
 このような状況を作り上げている条件を三橋や日隅には、考えてもらわないといけない。メディアの「読み解く力」「報道のレベル」は、多くが、それぞれの専門のレベルに規制されているのではないか。
 メディアがお粗末だと言っても、NHKスペシャルや特別報道番組は映像やインタビューの迫力があるとはいえ、見応えがあることが多い。
 しかし、裁判員経験者へのインタビューを番組で報道しているのには、とんでもないことだと思った。
 女性の裁判員経験者の話だったが、「事件の具体的な背景などいろいろ判って勉強になりました。」と言っていた。NHKは、まじめな裁判員の談話の例として報道したのだろう。この談話は、根本においておかしい。何がおかしいのか。(刑事)裁判は裁判員のものではない。、(刑事)裁判は、被告人のためにあるのだ。裁判員は、裁判に対して根本的に間違った理解をもって臨んでいたことになる。
 このような、大間違いの報道をしているにも係わらず、裁判所も、大学の法学者も、弁護士会も何も言わない。
 メディアリテラシーの問題もあるけれど、それだけじゃないでしょう。弁護士としての日隅達也、「News for the People in Japan」編集長としての日隅達也は大丈夫か!