特集「ウェーバーの超え方」(『季報唯物論研究』113,2010/8)について


  『季報唯物論研究』第113号(2010年8月)が「ウェーバーの超え方」という特集を行っているのを知った。2010年8月刊となっているが、実際には、少し遅れて刊行されたようである。私がみたのは、今年(2011)の1月も終わり近くなってからであった。
 『季報唯物論研究』は、哲学・思想誌として、いまや貴重な存在である。継続して発行されていること自体に敬意を表したい。
 しかし、「ウェーバーの超え方」という特集タイトルは、理解し難い。「ウェーバーの超え方」とは、マックス・ウェーバーMax Weberという人物を念頭においていて、その思想なり、社会科学的業績を対象としているのであろうが、何をもって、超えるべき「ウェーバー」と考えるのか。「ウェーバー」と一般に言われても、よくわからない。ウェーバーという漠然としたものしか想像できない。
 また、「超え方」という言い方で、何を具体的に考えることができるのだろうか。つまり、漠然とした「ウェーバー」を、漠然と「超え」ようとするようである。言ってしまえば、「ウェーバー(に限らず、他の誰でも良い)を超える」などというような言い方自体が、まずは呪文の域を超えない。本当に、壁としてあるような問題が認識できたとき、それは、その問題を「超えている」と言ってもよいだろう。つまり、何が問題なのかを認識できなければならないし、認識できたとき、それは、終わって、次の段階に達しているからである。そのような場合、「超え方」などと茫漠とした言い方はしないだろう。


  特集「ウェーバーの超え方」リード文と称するものを、恒木健太郎が書いている。絡みの文として、恒木は、『日経ビジネス』№1472.(2009,1,9)の記事を紹介する。その記事には、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」への言及があって、対応するものとして、二宮尊徳の思想が出てくるそうである。しかし、このプロテスタンティズムは、とくにはカルヴィニズムで、それは、農民というよりは、禁欲的な自律倫理として商工業者に受け入れられたものであるのに対して、二宮尊徳は、他の含意があるとしても、いわば、貢納農民を対象とした道徳である。両者はなんら対応しえない。絡みとしても、わざわざ挙げるに忍びないものである。このゴーストのような文、つまり論理の実のない文を批判するために、恒木は、折原浩を持ち出す。ウェーバーは、資本主義の肯定学説ではなかった、というわけである。「この『職業精神』の起源となるカルヴィニズムには、『職業』への没頭を習慣化させてこうした行為の意味を問う必要を感じさせなくさせる『没意味化』の萌芽があったという指摘である(折原浩『危機における学問と人間』未来社,1969年,418頁)。こうしたウェーバー流の資本主義への根底的な批判の側面は、1970年代以後の研究でもかなり指摘されている。それにもかかわらず、一般にこのことは理解されていない。」と、恒木は紹介する。
 折原は、カルヴァンのあとに続く信徒が予定説を信ずることによって、神義論問題に心を煩わされず、世界や人生、職業の意味を自らに問いもとめることなく、そのために節約された活動力を世俗内的生活営為にふり向けることが可能になった、と同時に、恩寵の証をもとめ、禁欲的労働に没頭し、有効な信仰fides efficaxであることを確証しようとした、とする。折原の言うように、労働する人が職業に没頭して、〈没意味化〉することを問題視すれば、それは資本主義を告発しているようである。が、そう考えることは、民衆は、全く非理性的で自律できない救いようのない存在ということになってしまわないだろうか。マルクスなどが考える革命主体としてのプロレタリアートなど論外になる。
 ウェーバーの「世俗内的禁欲」ということを聞いたとき、ヘーゲル法哲学』でもみられる欲望の体系としての市民社会を想起しないだろうか。「かれにとっては、現世内におけるかれ個人の合理的行為において、ひっきょうかれにははかりがたい神の意志を執り行っているのだ、と意識するだけで十分なのである。」というふうに、欲望の体系である市民社会の住人とは全く対照的な禁欲者を、なぜウェーバーは描いたのであろうか。欲望に盲目的に駆り立てられる市民社会の住人としての民衆ではなく、自律的な合理的行動を行う禁欲者としての民衆に託するウェーバーを考えるべきではないか。そこにこそ、欲望の体系の社会に基づく資本主義に対抗しえる民衆を考えるべきでないのか。


  松井克浩は、恒木によると、特集参加者のなかで、ウェーバーの名を冠した専門書を刊行している者の一人である。さすがに、「超える」ということに困惑している。「従来のヴェーバーヴェーバーに『よって』超える試み」などと言っている。要するに、「再研究」ほどの意味か。「超える」などという言葉で、ごまかすことは必要でない。
 松井の試みで、気がかりなのは、「『支配社会学』の冒頭に置かれた支配の『正当性‐諒解』論を取り上げて検討する。このテーマに関してもっとも精緻な議論を展開している水林彪の論考を手がかりとしながら、ヴェーバーの『社会』理論の可能性を考えてみたい。」とするところである。
 水林は、ウェーバーの言辞にしばしば言及しているが、まとまったものとしては松井の紹介にあるように、『天皇制史論』(岩波書店、2006)からである。水林は、そこで支配の正当性のことに関して一節を設けている。
 水林は、次のように述べる。

本書が「支配の正当性」として具体的に問題としたいことは、第一に、「現世の法秩序の究極の源泉」という意味での〈権威〉と「支配を遂行すると主体」という意味での〈権力〉との関係を問う視座、すなわち、〈権威(法の源泉)―権威により正当化された権力(権力者の法的権原)〉視座であり、第二に、〈権力〉の内部秩序の二類型論 ―〈人的身分制的統合秩序〉と〈制度的領域的国家体制〉―である。これら二つの視座は、本書が考察対象とする天皇制という対象に内在する事柄の本質が、考察主体に対して要請してくるものにほかならない。(15頁)

  支配の正当性を問題にする場合の支配関係というのは、権力支配関係である。そして、天皇支配の正当性を問題にするところで、水林は、天皇は、権力ではなく、権威だとするのである。しかも、その権威というのは法の源泉だという。
 天皇の地位あるいは身分に属することがらを行う者、つまり天皇の身分での行為をするもの(水林は、上皇・摂関・将軍と並べて書く)を権威でなく、権力とする。将軍は臣下であるが、他は臣下ではない。この程度の気になることがらは、本当は見過ごせないことではあるけれども、取りあえず今は問題にしないでおこう。
 水林にすれば、天皇は、権力でなく権威であるいうことで、「天皇不親政」ということを導きやすくしたのであろう。そうであるなら、その内実のない権威が、どうして法の源泉ということになるのか。抽象的な権威が法の源泉などということは、どうすれば理解できるのか。
 水林は、権威と権力の言い回しについては、日本国憲法前文の次のくだりを、念頭においているようである。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者が行使し、その福利は国民が享受する。」国民を天皇に替えれば、なんだか、よく似た構成のようである。
 しかし、「国民が権威」ではない。権威は、国民に「由来する」、あるいは、国民が信託したということに由来するのである。確かに、詔勅などによって、命令を権威づけることが行われる。命令が、詔や勅でなされたら、天皇の命令だからということで権威付けになるが、なぜか。それは、天皇の命令だから、天皇が権威だから、ということでいけば、同義反復になる。法は法である、という素朴な法実証主義者の同義反復を思い出すだけである。水林は、権力の上位に、法の源泉としての権威なる法の源泉を構想した。それは、ケルゼンが、国法秩序全体の妥当性根拠を最高規範に求めたのとほぼ変わらない。そして、ケルゼンは、その最高規範、すなわち根本規範の成立や根拠を問うことはしなかったし、また、問えなかった。
 ウェーバーの支配の正当性の議論は、全く逆である。正当性を問題にしているのである。水林によれば、まず、天皇は権威(この言い方も不可解)で、法の根本源泉であるから、その妥当性については、問いようがないことになってしまう。
 松井は、先に引用した部分をみて、水林のウェーバーの支配の諸類型、支配の正当性、法についての理解について、どうして、何の疑義も持たなかったのだろうか。
 このような言説を、「精緻な議論」を展開しているので「手がかり」としたいようでは、問題は深刻だと思わざるを得ない。


  「ウェーバーの超え方」というのなら、ウェーバーの学問の方法を把握しなければならない。周知のように、ウェーバーの学位論文『中世商事会社史』は、翻訳されていない。というより、未だ翻訳が出来ないのである。論文で引用されている史料が、読み切れないのである。つまり、ウェーバーの理念型は、しゃれではなく、単なるアイデアではない。未だに邦訳がなされ得ない実証的研究などに基づいて構築されたものであるということを言いたいのである。
 2006年に復刻出版された山本晴義編藤本進治著『認識論』(初版1957年)の第三部に、実践論として書かれたことであるが、「個別と一般とが結合しているもっとも単純な形のものは《典型》である」と述べているところがある。藤本は、この叙述を、ヘーゲルのフォルムやカントの形式についての議論を先行させた上で述べている。
 ウェーバーの支配の類型と、マルクスの「資本制生産に先行する諸形態」には、酷似するところがある。牽強付会ではない。当然のように符合するのはなぜか。

 
 先に、2009年1月5日発行の『日経ビジネス』の記事が引き合いにだされていることを言った。それが、ウェーバーの宗教社会学に関係があるものであるというのなら、2008年の後半に、内田芳明の『ヴェーバー「古代ユダヤ教」の研究』(岩波書店)が、出版されていることをどうして等閑視しているのか。
 ウェーバー専門家の論考によれ、というのではない。ウェーバー専門家でなくても、ウェーバーについて語る場合、当然に視界に入るというより、正面に来てもよいものが来ていないのである。それが、なされなかったのはなぜか。このことが、大学も巻き込んだ深刻な思想状況、政治状況を表しているのではないか。
 やはり、『季報唯物論研究』は、貴重な存在だと思う。そして、それこそ「知のアリーナ」たり得るためには、本当は、このような情況、ウェーバー特集を銘打つものが、このようになった情況を対象化していただきたいと思うのである。そうして情況を対象化することで自らを「超えて」いただきたいのである。