東日本巨大地震 「日本国の総力」を挙げて立ち向かう「国難」、という言い方

 2011年3月11日に東北関東の太平洋側を襲った地震津波は、マグニチュード8.8(9.0に修正)という数字もさることながら、津波の猛威は、この世の終わりかとおもわせるような凄まじさである。さらに、みんなが恐れていた原子力発電所の被災が現実のものとなっている。
 交通手段も通信もままならない状態で、懸命の救出作業が行われている。阪神淡路大震災のとき、村山内閣の動きが遅いと言われたが、実は、少なくとも午前8時ごろには、自衛隊員グループは、西宮に出動していた。彼らも情況が把握できないのか、連携を確認しているのか、トランシーバーで通信していたのを覚えている。
 ラジオでもまちまちの情報を流していたが、当然ながら、事態は把握できていなかった。神戸市長田の火災での消火作業が問題になった。消火用の水を採るところがないというのである。そういえば神戸では、神戸ウォーターとかいうが、神戸の上水道は、ほとんどが淀川の水である。そもそも、そんな危ない都市だったのである。
 阪神淡路大震災の教訓の一つは、住民の生活のために地方自治体がしなければならない自治体行政の基本への見直しだと思っていた。
 こんど、東日本を襲った地震津波は、阪神淡路大震災の被災地域とは、被災地域の広さと言い、数字と言い、全く別種のものである。
 官房長官の枝野が、11日に「日本国の総力をあげて……」と言えば、菅が12日に「国難に立ち向かう」と国民に呼びかけたらしい。
 世界各地(アメリカ、シンガポール、中国、韓国、ロシア、ドイツなど実際に来日、申し込みだけでも実に61カ国の国と地域からあったという)から、救援経験のある人がかけつけてくれているとき、「日本国の総力」などと、わざわざ言うのか。
 多くの人々の生命や財産、それに生活の根底が絶望的になっていることに「国難」とは、少し変じゃないのか。古館が、菅首相の呼びかけに対して、国難に向かうんだというのは良いけれども、もっと具体的に何をするのか言ってくれないと……、と例によって生意気を言っていたが、情況は様々なので、具体的なこと言えるわけはない(自衛隊員の大規模投入、福島第1原子力発電所付近からの避難などの着実な発令は、13日のABC系朝の番組では評価が高かった。)。
 12日の渡辺宜嗣アナウンサーの番組か膳場アナウンサーの番組であったか、はっきりしないが、確か原発の問題に関してであると思うが、アナウンサーが、「中央で指揮して……と言いかけたのを、コメンテーターが、それは違う、と穏やかに言っていた。首長の権限は、強いのです。現場に直視している地域の首長じゃないとやれないことなのです、と言っていた。
 菅の姿は、なんだか「国難」の前に、強い日本を、勇ましく誇示する大将の姿のようであった。古館は、体質が似ているので、生意気なコメントをしたのであろう。
 私には、まれにみる広範囲に起こった巨大地震津波に対して、誰が救難活動のの中心になるべきなのかを指摘する識者の存在は、貴重なものと思えた。(2011・3・13)