関西大学生活協同組合『書評』の惨状① ― 君は、このおぞましさを直視できるか。

     関大生協『書評』の惨状①の内容見出し
  

一 「ゆらぐ色模様」……過剰な装飾のオカルト風呪文……「先生、できました」と言ってい     る、若くない編集者
  二 関西大学文学部(国文学)教授田中登の悲惨 ―「私流文庫・新書の楽しみ」のナンセンス―
     ……正統な古典の読み方がわからない国文学教授
  三 仲井徳の悲惨 ―「本のいろいろ・70…関大図書館」の無惨
  四 渡部晋太郎「図書館資料紹介」への懸念 ― 富永仲基『楽律考』を紛失している関西大学
  五 弁護士中北龍太郎の悲惨な認識 ―「裁判員裁判 〜ほしひかるまどがらす〜」


一 「〜ゆらぐ色模様〜
 関西大学生協『書評』最新号136号のタイトルである。表紙の網干善教によるタイトル字が無くなったころから、『書評』の様子が特に奇妙になってきた。内容も「書評」というタイトルの冊子であるのに、とくに社会科学系の書籍に関する論評などは、ほとんど見ることがない。あげく、「ゆらぐ色模様」など、下に記すような怪しげな呪文が毎回載ることになった。
 第136(2011・秋)号の表紙には、目次にかえて、次のような呪文が並ぶ。
 ●福島原発事故・大震災 〜つゆくさへレモンのかぜ〜
 ●自然環境 〜そらに鳴子のおと、とんぼ〜
 ●裁判員裁判 〜ほしひかるまどがらす〜
 ●学ぶ 〜山車ひびく、ステンドグラス〜
 ●紡ぐ記憶 〜かぜをきく、かまきり、鳳仙花〜
 この呪文は、一体何のつもりなのか。タイトルなど、その文の趣意を、最も適切に伝えるものでなければならないのは、編集者としては第一に心がけるべきことことの筈だ。
 文が問題とする趣旨を、呪文の下で、拡散というより霧散させてしまうことなど、編集者としては、絶対にしてはならないことである。これは編集者として、致命的な誤りを犯しているものと言わなければならない。
 人によっては「裸の王様」の話を思い出すだろう。王様のとりまきが皆、お馬鹿な見栄をはって、すばらしいお召しものでございますね、と「裸」の王様にべんちゃらをし、「裸」の王様も、それに酔っていたわけだが、正直に言う人なら、「何惚けているんや、書評は!」と呻るのが関の山で絶句するしかない。悲惨な事故に対して、「つゆくさへレモンのかぜ」、深刻な司法崩壊状況の裁判員裁判が、「ほしひかるまどがらす」となる。全く、底抜けのアホを隠しも覆いもしない、丸出しじゃないか。裸のアホだろう。惚けるのにどれほどの経費をかけているのかと思う。
 惚けているのは、事実なのだろう。巻末「編集メモ」に《M》として表れる編集者には、その呪文が、問題をどれほどスポイルし、文の趣意を拡散しているかという罪責意識もないのだろう。問題理解が出来ず、呪文を唱えてごまかしていると思わざるをえない。
 この凄まじい痴呆状態が継続しているのは、どういうことなのだろうか。雑誌刊行者あるいは、編集者《M》が、問題に対して、理性的な対応が困難というより認識不能状態に陥ってしまっているという醜態、つまり理性で、懸命に認識しなければならないところを、惚けたふりして、芸術家風に、あるいはオカルト宗教家きどりで、呪文を発している様子だが、それを、如何ともし得ない、生協スタッフ・理事会の状態も反映しているのだろう。
 編集者《M》は、問題を解明するどころか、どこから解きほぐしていくべきか、ということも全くできない精神状態から「ほしひかるまどがらす」とか「ひかりにうくようみゃく」(鈴木祥蔵先生追悼)と、呪文が浮かんでくるのであろう。幼児というよりオカルト教祖の如く呟き、誤魔化そうとしているようである。誰も誤魔化されてなどいない。誰もが関心も持たず、無視しているだけだ。『書評』は、問題に切り込めずにぼかすことにより、問題への無関心化に拍車をかけている。私は、この小冊子には、過去に些かの関わりをもつので、痛ましいというより、おぞましいという感情に囚われざるを得ないのである。問題は、誰一人、王様は裸だ、と言った子供の役割をするものがいないということである。その意味で、今、「裸だ」と言う子供の役をしてみようと言うわけである。
 一体誰が、このような恥ずかしい姿をさせているのかとも思う。巻末の「編集メモ」には(M)とあることは言った。ふつう、イニシャルだけの場合、どこかで、誰のイニシャルか分かるが、今は、それがない。少し前に、(村井)とあったことがある。あるいはそれかと思うが、確実ではない。「書評」編集委員会とあるが、その実態は不明である。吉田永宏が委員長として文を書いていたのを見たことがある。本当に、その委員会でこの呪文で覆われた冊子刊行の会議を行っていたのだろうか。そうであるなら、いよいよ奇怪である。
 編集委員会と称するものには、意見を言っても、問題を提起しても、何の反応も得られない。これは、編集委員会などダミーで、《M》など、ゾンビか、お足のないゴーストの類なのだろう。
 このような状態を問題に出来ないこと自体が深刻な状況であると思われるので、以下、とりあえず、問題を挙げていこうと思う。取りあえずと言ったのは、とんでもない問題の集積なので、整理できないのである。少しでも、この異様さ、愚劣さを指摘できればと思う。
 今の社会を、心ある人々が気味悪がるのは、この混乱状況からは、どんな独裁権力が表れるか、わからないと思うからである。それは、ナチス支配前のドイツや、昭和初期のエログロナンセンスの時代を想起するものがある。
 ナチス支配前のドイツといえば、1970年にみすず書房からピーター・ゲイ『ワイマール文化』の翻訳が出版された。本の体裁からして、やがてナチスに圧倒される前の束の間の絢爛さをみせた時代を表すようであった。その最終章に、

 「しかし、当時のワイマールは、魔の山の上の人間社会のようであった。血色のよい頬の下で、密かに病が進行していたのである。」

という箇所*(亀嶋新訳163頁)があった。頬のよい血色のために、病の急激な進行がわからなかったのである。

いま、この箇所を、捩れば次のようになるか。
 「しかし、『書評』の人々の頬は、血の気も失せ、とても生きている人とは思われなかった。」

 ワールブルク文庫の光景を軸に、表現主義運動や、またカッシーラートーマス・マンの像が豊かな陰影をもった姿で描き出されているようだった。ゴーストになる前の《M》が、この本の論評を依頼してくるようにと私に言った。関大の独文科の先生たちからは、どんな反応を受け取ることができるだろうかと思ってかけずり回った。残念なことに、当時の関大独文科では、対応できなかった。
 その後、私は、卒業して『書評』から離れた。翌71年山口昌男『本の神話学』(中央公論社、77年に中公文庫、関大図書館には両方ともに無い)が出版された。その巻頭の文が「二十世紀後半の知的起源」で、それは、「1 思想史としての学問史」「2 ピーター・ゲイの『ワイマール文化』」「3 精神史のなかのワールブルク文庫」となっていた。山口がピーター・ゲイやワールブルク文庫を適切に紹介するのにも驚いたが、私が感心して読んでいたその訳本には不適切な訳や、ときには明らかな誤訳があるこが指摘されているのには、さらに驚いた。みすずは、直ちに絶版にした。数年後、新訳版が出た。大変なことになった話題の訳本だったが、残念なことに、当時の関大の力量では、正直言って歯が立たなかったのである。
 つまり、『書評』は、そんなところで、精一杯能力ぎりぎりのところで、めいっぱいの背伸びしてやっていたのである。第125号の〈編集メモ〉は、故小川悟が「この雑誌(書評)は、関西大学生協が誇りとすべきものである。書評誌ではあるが、この小さな冊子のなかには、まさにさまざまな学問や思想が豊富に織り込まれていた」と関大生協40周年記念の出版物で述べていたことを紹介している。「織り込まれていた」ようなのは、そのときそのときの思想的水準あるいは出版物に触れてみよう、あるいは引っ掻いてみようと、編集に携わった者たちが必死だった、ぎりぎりであった結果にすぎない。実際には、先のように達し得なかったことが多いのである。しかし、食らいつこうとして、食らいつけなかったことの自覚があるかぎり、まだ命脈は保てる。その自覚が、無くなったら、それは終わりである。その意味で、小川悟の文は、既に危機的である。小川悟は「この冊子の発行に携わっていた学生諸君は、さまざまな個性を持った多くの教授方に接する機会に恵まれて幸せであったことと思う」と全く呑気だ。小川は、当時の学生のいらだちを感じなかったのであろうか。実際に、提出された課題の前に、蓄積が一気にほとばしり出るようなことは稀であった。というより、恩恵を被ったのは、思想・研究との格闘が、面前で行われるのに立ち会ったこともあることである。人に接するというより、その格闘に接するのである。泰然ときどったものからは何も出てこない。どうも小川には、誤解があるようである。だから課題によっては、教員はあてに出来ず自分たちでするしかないとも思った。
 当時の知的水準に拮抗していたことも、初期にはあったようである。1968年、内田芳明が『ヴェーバー社会科学の基礎研究』(岩波書店)を出版した。当時、表裏の2頁のものにすぎなかった『書評』は、ほぼ1頁を、法学部教授石尾芳久による内田著の書評にあてている。そして、この書評を編集者が内田に送ったようである。内田からすぐに返事がきたことが、第9号で紹介されている。当時の表裏2ページの書評「紙」(『誌』でない)ながら、内田の記憶には残っていたようである。ちょうど40年後の2008年9月、内田芳明著『ヴェーバー「古代ユダヤ教」の研究』(岩波書店)が発行された。その第一章「ヴェーバー『古代ユダヤ教』とわが研究 ―一つの回顧と展望―」は、117頁に及ぶものである。そこに『書評』に掲載された石尾の論評があったことも記されている(76頁)。これは、『書評』が、当時の学問や思想の世界とクロスした一例にすぎない。ひととき池田浩士や梁永厚のまさにコンテンポラリーな論考があいついだときもあった(実は136号にも梁の文がある。力編であるのに、どういうわけか埋もれた印象をうける)。増田渉の貴重な連載(後『西学東漸と中国事情 「雑書」札記』として岩波書店から1979年刊行)や、あきらかに現実の社会運動のなかからの思想的言明もあった。
 125号の〈編集メモ〉の内容は故小川悟を偲ぶものであるが、この〈メモ〉の最後を、編集者は、小学生のように「先生、125号ができました」で結んでいる。とても、「思想や学問が豊富に織り込まれた冊子」のしめくくりの文とは思われない。勿論というか、そこには日付もない。「先生、125号ができました」とは小学校低学年の児童の台詞である。あたかも精神的コスプレのようで、とても、石尾に内田著の書評を書かせ、それを内田に送って内田を感激させたのと同じ人物とは思えない。なんだか、幼児がえりのようで、退行しているのだろうかと思った。
 突然、合点がいった。「ひかりにうかぶようみゃく」とか「ほしひかるまどがらす」は、よい歳の爺いのやることかと思うから、変なのだが、幼児がえりだと思えば、それはそうなのだ。だが、それではとても学問や思想は扱えない。「書」というのは、書道ではないのは判っているだろうが、本のことだ。思想や学問の一番の媒体だ。あるいは、思想や学問そのものと言っていい。いろんな人が、それに自らの精神的活動をつぎ込んでいることは判ってもらわないと困る。
 幼児返りの感覚で茶化してもらっては困る。それは「書」に対する冒涜である。「呪文」が付くようになった『書評』には、書に対する冒涜を固めたものの印象を受けざるを得ないのである。

二 関西大学文学部(国文学)教授田中登の悲惨
              ―「私流文庫・新書の楽しみ」のナンセンス―

 「書」に対する冒涜の印象は、巻頭から始まる。「私流文庫・新書の楽しみ」というのが、ここ数年、『書評』で、大きなスペースをとっているが、一体何のつもりか、さっぱり判らない。読書経験の無い(あるいは浅い)学生諸君にも、感想文を書いて貰おうという趣旨なのか。全国のほとんどの高校(中学も)では図書委員会というのがあって、新刊を、図書委員の生徒の文で紹介したものが刷り物として配布されている。書店に行くと、手際良い解説文を載せた文庫や新書の目録が手に入るが、この「……楽しみ」の内容は、中高生の生徒図書委員会会報から、「書」に向かう清新さを失っただけのことになりかねない。*

東海大学北条芳隆教授(考古学)の「北条芳隆のコラム」というサイトに「論文の読み方」というPDFファイルが添付されている。北条がこのファイルを掲示するきっかけは、いくつかあるようだが、卒論の作成をひかえた学生のためだということである。論文の読み方など、本来は高校か一般教育でやっている筈であるのが、卒論を書こうとする段になって専門分野の論文が読めない。したがって、その分野でどのような問題があるのかが分からない。つまりテーマの出しようもないということである。それで、「論文のよみ方」なのである。これは、学生用ということであるが、実は、大学で指導している筈の先生方の参考になっている筈である。勿論、その内容について、異論もあるだろうが、このようなファイルがアップされるのには理由がある。

 「文庫・新書」とセットにしている理由は何か。廉価本ということか。今、文庫などの種類も増え、多様化している。とはいえ、岩波文庫が範をレクラムにとったものであるというのは周知のことである。古典を廉く読めるようにという趣旨である。作家でも、自分の作品が文庫になることは、それだけ「古典」なみに評価されたということで、そのときの作家の気持ちは想像するにあまりある。
 毎日新聞2008年12月14日「今週の本棚」で、伊東光晴は、2008年「この三冊」の最初に、岩波新書『金融権力』(本山美彦著)をあげ、「研究者が、いま苦闘している問題を読者に投げかけた本来の新書」と書いている。
 読書を楽しむのを禁じる理由は何もない。ただ、文庫や新書は、楽しむ以上に、読むに値する本だという評価がある本なのである。古典を楽しむのは勝手だが、勝手な趣味でいじられたものを掲載されては、原著者や文庫・新書として刊行した編集者の意欲を受けていないということになる。「私流」など、粗末な誤解を正当化しているのにすぎないようである。誤解するのは読者の勝手だが、それをわざわざ発表するのには理由がいる。*

谷沢永一が、雑文ではなく、研究論文としての自分の代表作に自らが擬している『文豪たちの大喧嘩―鷗外・逍遙・樗牛』(新潮社2003)に「谷沢流『登場人物・事項』コラム」なるものを付けている。「谷沢流」などといえば、人は、何かユニークなことが書いてあるのかと期待する。しかし、端的に言って、下品である。人の下世話な興味をひきそうなことを書き付けて売り物にしているようである。一例を「荻生徂徠」の項をみる。「江戸時代の儒学者。若いとき尊敬する伊藤仁齊に教えを乞う書簡を出した。しかるに返事が来なかったので一生怨み憎しみ通した。篤実な仁齊にして此の事あり、人生解らぬものである。日本思想体系に一人一冊分あてがわれるだけでも大した処遇なのに、山崎闇齋と徂徠だけは、その人個人と別に闇齋学派と徂徠学派の巻を立ててあることで影響甚大なることが察し得られよう。古典はその国のその時代の言語で読むべしとし、古文辞派と称された」。
 「一生怨み憎しみ通した」というのは、谷沢自身の性情による確信だろうか。谷沢の誇大な表現は、確かに「谷沢流」だ。つまり、徂徠とは怨念の徒らしい、というものだ。その怨念が、徂徠学にとってどうなのかが全くないのも谷沢流だ。わざわざ書くのなら、根拠と、その憎しみが、如何に、徂徠学に顕れているかという問題で書かなければ、単なる、自己の心情から出たデマにすぎない。谷沢流とは、げすのデマのことか。「古文辞派」とは普通称されない。また、古文辞学はもとは文学の方法から出たものであるから、「古典はその国のその時代の言語でよむべし」という説明も、素朴な谷沢流、つまり間違い。

 毎号、巻頭巻尾を別枠で飾っているのが、文学部教授田中登の文である。今136号巻尾に、田中の「私流新書の楽しみ―『清張ミステリーと昭和三十年代』(藤井淑禎)」がある。田中は、藤井が「『砂の器』の映画館トリックがいかに無理のないものだったか、について解説する」と「評価」している。
 藤井著も直裁に言えばナンセンスだが、田中の文は、このナンセンスをステップにしたナンセンスである。『砂の器』は、1973年に脚本・橋本忍山田洋次、撮影・川又昂、美術・森田郷平、音楽監督芥川也寸志、作曲・ピアノ演奏・菅野光亮、出演・丹波哲郎加藤剛森田健作島田陽子加藤嘉笠智衆野村芳太郎監督で映画化され、空前のヒット作品となった。
 その後、スマップの仲居主演のリメイクもあったが、今年2011年9月10-11日、テレビ朝日で、玉木宏中谷美紀佐々木蔵之介小林薫山本学加藤あい榎木孝明大杉漣・西村雅彦・小林稔侍・橋詰功・原田龍二・長谷川博巳・ 紺野まひる山口馬木也という豪華キャストのリメイクドラマが放映された。昭和30年代の汽車や町並みも、最新技術で美事に再現されていた。しかし、魂が入らきらない豪華作品と言わざるを得なかった。
 松本清張は社会派ミステリーといわれる。それは、話の背景に、当時の風俗を扱うからではない。松本清張の作品は、トリックとしては、かなりご都合主義であったり、単純なものであることがある。『点と線』でも、どうも鉄道では、つじつまが合わない、というところで、当時は今より、遙かに利用者が少なかったとはいえ、飛行機の利用があった、というのは、あまり上等なトリックとはいえない。そんなことよりも、松本清張は、社会の暗さ重さ深さで作品に深みをもたらしていると言われる。
 今回の玉木・佐々木主演のリメイクドラマでは、重いドラマの核である筈だったハンセン氏病についての社会的偏見の問題を回避してしまった。父親を、それ自体は軽くない一家殺人事件の被疑者だったドラマにした。そのことで、この時代と社会がもっていた問題の重さが吹っ飛んでしまい、キャストの豪華さだけが印象に残る、淡い豪華ドラマになってしまった。
 ハンセン氏病に対する偏見は、恩人でさえも殺害してしまうほどの脅迫観念があったわけで、その偏見の恐ろしさを回避することは、全く清張作品を冒涜することになるだろう。
 藤井が蘊蓄を傾ける映画館がどうのこうのとは、それは、いわば小道具だ、そんな小道具をいくら「楽し」んでも、何の意味もないことくらい判らないのだろうか、この文学部教授は。そんな小道具に焦点をあてることによって、松本清張が作品にした社会の問題を回避することになっているではないか。
 文学部教授田中登のこの文は、田中が松本清張の作品を如何に理解していないか、ということを自白しているということだが、そもそも、「楽しみ」を、しかも、文庫や新書を対象にして語ることを主題とすること自体、判っていないということの例である。「楽しむ」前に、古典を学び、研究を理解しないといけない。高橋も田中も一応国文学の研究者だろう。そういえば、「編集委員会代表?」の吉田永宏も国文学研究者の筈である。繰り返すが、崩した読み方も否定しているわけではない。崩すなら必死でしろというわけだ。国文学教授が、本を読めないようでは困ると言っているのである。
 小川悟は、「誇りとすべきもの」としたようであるが、はっきり言って「恥とすべきもの」である。国文専攻の教授が、松本清張の作品の趣旨を理解できていないのである。恥の連続である。しかしその一例にすぎない。
 
三 仲井徳の悲惨 ―「本のいろいろ・70…関大図書館」の無惨
A 仲井徳と渡部晋太郎がレギュラーで書いている。「本のいろいろ 関大図書館」は仲井徳。渡部は「図書館資料紹介」。仲井は元図書館職員で、渡部は現職らしい。大学図書館といえば、大学の研究や学問にとって象徴的意味をもつところだと言われる。したがって、学問的業績をあげている大学の図書館館長の地位は、大学の教学体制において学長に次ぐ地位と目されている。
 関西大学の図書館長がそうでは無いのは、関大における研究・学問が厳しい状況にあるということか。しかし、仲井や渡部の文章をみれば、そもそも研究や学問を云々するどころではない。
 今、関大図書館は、ますます荒廃した印象を受ける。レファレンス・カウンターが縮小され、事務室の存在が見えなくなり、派遣の社員ばかりで運営している。関大は、研究や学問などの世界からはとっくに遁走しているようである。仲井は、その図書館の先輩であり、渡部は、その荒廃の推進役の現役なのだろうか。そういえば、松本清張砂の器』も読めない国文学専攻だという田中登関西大学図書館館長だったそうである。
 私は、かつて関西大学の職員が、学生のみならず、教員に対しても傲慢な姿勢をとるのに驚いたことがある。田中登の文をみれば、嘗めた態度も出てくるのかと思うが、仲井や渡部など、学問や思想、本について、何かを言うのは全くおこがましい。
B この元館長にしてこの職員たちか。仲井は、『書評』136号で、「伝統芸能の継承について」とするものを書いている。「伝統芸能」とは何か、ということで「芸能」の語義、すなわち、芸術と技術だとか、ずれた説明をしている。「茶道」と言って、具体的に名前を出しているのは、三千家だけである。しかも通称名である。病院の待合室の隠居の話にもならない。仲井は「おけいこ」のことを書いている。裏千家が、現代の隆盛を築くことになったのは、そう古いことではない。お稽古が、形骸化し、というより、形骸的なものにした免許制度をつくり、その制度でつくった促成の指導員を女学校や紡績工場や製糸工場の女子寮へ送り込み、底辺拡大に成功したからである。それまでの今日庵の逼塞状態は、宮尾登美子『松風の家』で偲ぶことができる。
C さらに「能楽狂言」「華道」にならんで、―このような項目立て自体、無惨であるが、―「礼法」が出てくる。礼とか法は、人間関係の表現だろう。その関係を無視して、礼法だけが存在するわけがない。小笠原流礼法などと言うようになったのは、その礼が実体をもっていた(大名家の)社会が無くなって久しい昭和になってから本格的に言い出したものにすぎない。仲井のとんちんかんは、初めてのことではない。毎回のことである。何年も前に仲井に注意したとき、てっきり恥ずかしいから止めると思っていた。本当に自分が分かっていないということが、分かっていないようである。恐らく、今言っていることも分からないのではないかと思う。
D 135号の「本のいろいろ―茶の本―」では、仲井は、本について言っているが、「お茶の体系」とか、「古典派」「ロマン派」とか「自然主義派と呼ばれ」と、正体不明の無責任な言葉を連ねている。仲井は、どこかの女子大で講義をしているようだが、こんな答案やレポートが出て来たら、合格には出来ないだろう。自分で自分の文が、合格できないくらいの判断はつかないというのでは困る。
 「自然主義と呼ばれ」と書いている。これは、そういう言い方が一般化しているときの言い方だ。しかし、これは岡倉天心が、欧米の知識人に認識させるための方便として言ってみた言い方にすぎない。「呼ばれ」てなど、絶対に無い。しかも、仲井は、「伝統芸能」のことを言おうとしていたのだから「茶の湯」のつもりの筈だが、古典派云々と、天心が言うのは、中国の話である。
E 従って、伝統芸能を想起させたで「茶の本」というタイトルにふさわしい本は一冊も紹介されていない。仲井が、茶の湯とか茶道について何も知らないし、知ろうともしていない。知らないことについての自覚もない。
 茶の本などほとんどないまま、(つまり天心著に触れて)新渡戸稲造『武士道』のみならず、数学者の書く『国家の品格』とか板東真理子『女性の品格』を挙げているのは論外。
 『武士道』執筆のきっかけを、新渡戸は、ベルギーの法律家ド・ラヴレーに、日本には「宗教なし」ということが不可解であるとされたことにあるとする。この「宗教」の意味するものが仲井はどれほど理解しているか疑わしい。
 仲井は、『武士道』に引用される『孟子』の「惻隠の心」に言及する。それは、人なら誰にでもある筈のものである。仲井は、わざわざ、「惻隠の心」からnoblesse obligeということを言う。前者が、「人」であることについて言っていることであるのに対して、後者は、身分あるもの、つまり貴族の義務になるので、全く違うことになる。新渡戸は、武士道の根底にあるものについて述べようとして構成しているのだが、仲井は半可通で、noblesse obligeなど判らないまま書いているので、何のことか判らなくなっている。知らないことを書いて悲惨なことになっている。
E 茶の本とか茶道というのなら、関大図書館でも所蔵している企画出版、『茶道全集』(晃文社、1947、関大には茶道具の第4巻、第5巻のみ)、『新修茶道全集』(春秋社1955、関大には、巻4、5、7、8のみ、創元社のものは巻2だけ。)、『茶道美術全集』全15巻(求竜堂1970-1)、『茶道古典全集』全12巻(淡交社1956)などがある。
 茶の湯に関しては勿論、利休に関する研究書だけでも、紹介も簡単ではない。それを限定するには、相当の力量を要する。仲井では、到底できない相談だ。虚偽を振り回さず、触れないことが、最善とも言い得る。
 手前とか歴史のことで、あえて、何かをあげるなら、『茶道古典全集』第三に入っている『源流茶話』である。中村修也の注釈もある(文教大学教育学部教育学部研究紀要』37-9).これは五世藪内紹智つまり不住齋竹心が書いたものとされる。第3巻に「本書の解題は、藪内宗匠に執筆をお願いしたが、御委任を蒙ったのでここに編集者としてあえて執筆したものである」と15世千宗室が付記している。どうして藪内家の人物が解説を書かないのか。 題が「源流茶話」とあるように、利休の作法が、17-8世紀には、崩れてしまっていることがある。そのことを述べたものを藪内家の人物が解説することに躊躇いがあったのであろうとは容易く推測できるところである。茶の湯について触れるつもりなら、このことぐらいは、知っておかないといけない。

四 渡部晋太郎「図書館資料紹介」への懸念 ― 富永仲基『楽律考』を紛失している関西大学
すでに少し触れたが、我慢ならないことは、田中(登)といい、仲井(徳)といい、本つまり書を舐めている、あるいは、弄んでいるとしか思えないことである。本を作った人が注ぎ込んだそのものを、全く判らずに、判るはずもなく嬲っているとしかみえないことである。編集者《M》も、その状態に陥っている。本人たちには、その意識はないのかも知れない。つまり判らないのだ。判ろうともしない。迫ろうとする気がない。これは、書に対して、書を編んだり、書いたりしている人に対して、知的活動に対して許されることではない。
 田中、仲井もそうだが、「図書館資料紹介」の渡部晋太郎も、同様である。136号では、『大正人物・文芸・社会評論書集成―谷沢永一コレクション』とある。渡部は、谷沢蔵書の寄贈のことなどから書き出している。表題は、谷沢家の寄贈に付された名称かと思ってしまう。しかし、渡部が「本書の『まえがき』において」と書くのを見ると、これは2001年に雄松堂出版から刊行された書籍の名前のようである。が、実際に、本書というのは、「目録」のことで、「コレクション」というのは、マイクロフィルムのことだろう。編集者の《M》はこのことが判っているのか。私はこの表題がマイクロフィルムのこととは判らなかった。だったら、渡部はどうして文中に「本書」と書くのだ。
 渡部は、何を書いているのか判らないということで、128号のことを思い出した。128号では、この連載「図書館資料紹介」(10)で、オックスフォード(Oxford English Dictionary)の電子版を紹介していた。オックスフォードの電子版など、必要な人は、個人でもって利用している。そこまで調べないという人には、そもそも必要はない。尤も、図書館にあれば便利であるが、「当図書館には、諸橋大漢和辞典がありますよ」と誰か紹介することがあるのか、と言ったところである。
 電子版のことを言うことで、年配の研究者に対する優越感をもつような人間の卑しいところが、関大図書館にある。渡部はその卑しいDNAだ。無知なだけでなく、卑しい。
 この(10)の間抜けはさておいて、その表紙裏つまり、巻頭にある(9)「富永仲基著『楽律考』(関西大学東西学術研究所)」という渡部の文は、ちょっと異様である。渡部は、「いずれ人類史を明治以前・明治以後で区分する史観が一般的になるであろう」と言っている。冗談でも恥ずかしくて言えない。ところが渡部は大まじめのようである。編集者のゴースト《M》は平気だったのだろう。
 江戸時代の『楽律考』の刊行が(関西大学東西学術研究所)とあるのも変だと思ったが、それは、影印本だからである。わざわざ影印本を「資料紹介」するのか、と思う。仲基『楽律考』は、石浜純太郎博士を介して、関西大学に寄贈された。ところが、影印本を作成したあと、紛失したらしい。渡部の真骨頂は、「従って、この関西大学東西学術研究所刊行の影印本が今後進められる富永仲基研究、延いては徳川思想史研究にあたって拠るべき第一級資料となっているのである」という文である。『楽律考』によってだけ研究を推し進めるわけにはいかないのであるが、それはともかく、紛失したから、この影印本の価値があがった、と言わんばかりの書き方になっている。第一、「資料」のことを話題にするものが、影写本は、原本に取って代わることなどできるものではないということにあまりにも無感覚である。第二、紛失するということは、由々しい問題ではないか。盗難にあったのかも知れない。つまり、関西大学は、かかる人民の遺産たるべき貴重な文書等を管理するだけの能力も資格もないということではないか。関西大学には、内藤文庫をはじめ、真に世に誇り得る貴重な書物等を保持している。このような状態であれば、しかるべきところへ移管願う必要があるのではないか。渡部の尋常ならざる文をみれば、関大には、そうして貴重な書物を管理する能力などは欠落していると思わざるを得ないだろう。

五 弁護士中北龍太郎の悲惨な認識 ―「裁判員裁判 〜ほしひかるまどがらす〜」
 「〜ほしひかるまどがらす〜」と粉飾された「裁判員裁判論」のセットの一つとして弁護士中北龍太郎の文がある。ところが、中北の文は、狹山裁判批判である。どうして裁判員裁判の問題として狹山事件のことが書いてあるのか。そもそも、中北は、裁判員制度あるいは裁判員裁判に対して、とりたてて問題あるなどとは思っていないのではないか。でないと、「裁判員裁判 〜ほしひかるまどがらす〜」で、ご丁寧に「裁判員制度(6)」とまでして、狹山裁判の証拠問題をとりあげるのか。ひょっとして、証拠法の問題は、素人には無理なので、と裁判員裁判を批判しているのか。とてもそこまで読めない。
 裁判員裁判では、毎回毎回有罪を認めている被告人が、無責任な匿名の裁判員たちの晒し者になって、しかも品定めともいうべき量刑を按配されている、なかには、その無責任な裁判員の叱責をうけている被疑者もいる。相手が有罪を認めているからとかさにかかっているとしか思えない。弁護士の前で、人権侵害が横行している現状を弁護士として思うことはないのか。
 中北は、狹山事件の弁護団の一員だったようだが、別件逮捕による長期拘留の末の自白が、大きなポイントになっている。石川氏は、取調の刑事に、石川氏の実兄が捕まって自供もしていると告げられ、仰天し、家を支える兄を庇うために、捜査員の言うことに従ったと述べている。弁護士も保釈手続きをしていたくらいだから、全く動いていないこともないのだろうが、石川氏は長期拘留の間、捜査員以外との接触はほとんど無かったようである。
 狹山事件は、捜査や裁判自体に大きな問題であるが、石川氏が、捜査員の姦計で実兄を庇って、自白したことが、ポイントになったことを考えれば、弁護活動が、適切に行われていれば、全く異なっていた可能性は高い。記録の上では、一旦、釈放の上、再逮捕だが、令状を取り寄せておいて、門前逮捕だから、他との接触は全く無い。
 弁護士の中北には、冤罪事件の何割かは、弁護士が荷担したものであることを認識しているだろうか。八海事件の裁判批判で有名な正木ひろしは元から弁護士であるが、青木英五郎は、判事を辞して弁護士の活動を始めた。極めつけは、財田川事件の矢野伊吉弁護士である。判事の矢野が谷口の再審請求の訴えを見ていなかったら、矢野が裁判官を辞して弁護士の活動をしてくれなかったら、谷口は死刑囚であることから抜け出られなかった。
 今回の司法改革、法科大学院の設立や裁判員制度における弁護士会の対応をみていると、日本の司法は、とんでもな状況になっていると思わざるを得ない。裁判が問題になるとき、裁判所や裁判官の問題、取調や検察の問題とされてきたのだが、実は、弁護士の状態は、それに負けないのではないかと思わざるを得ない。
 裁判員制度(6)とする、弁護士中北龍太郎の文は、裁判員制度とどんな関係になるのか。弁護士中北龍太郎は、裁判員制度などには、およそ関心がないのではないのか。あるいは判らないのか。
 尤も、このような悲惨なことになったのは、編集者にも一因がある。編集ゴースト《M》には、裁判員制度が、何であって、如何なる問題があるか全く理解の外なのだろう。だから、自分が何を依頼したことについての自覚もなければ、寄せられた文を検討することも出来なくなっているとしか考えられない。
 これは救いようのない《悲惨》パレードではないか。
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 あまりの惨状続きで、それこそ、問題が拡散してしまった印象がある。5回にわけてもよかったが、せめて、これくらいはと思って長くなってしまった。あまり省略するわけにもいかなかった。長引くと滅入るので、ある程度は、ひとそろいということで、並べた。
 編集者の《M》は、とくに、仲井や渡部のものなど、文と言えるものではないということが解らないのだろうか。このような、能力も資格もない者の文を掲載頒布するなど、許し難いことだと言わねばならない。
 しかし、編集者《M》には、その災厄は、計り知れないが、責任は追及する気持ちが湧かない。《M》は、期待に応えようと、一所懸命やっただけだ。「先生、第125号ができました」などと言う者に、どう責任を追及できるか。書評編集委員会委員長吉田永宏には、また問うことにしよう。理事の何割かは、論文やレポートの指導もしている教員だろう。仲井や渡部の文などみていないかも知れないが、理事である以上、知らないでは済まないだろう。
関西大学生協『書評』の惨状①終わり