谷沢永一の浅い底、抑鬱の理由  ―関大生協『書評』№136 渡部晋太郎「図書館資料紹介(24)」にふれて思うこと

 
谷沢永一の学問的業績
 谷沢が亡くなったのは、今年2011年の3月ことだったようだ。そういえば、新聞で、訃報をみたような気もする、その程度である。それほど、何の感慨もない。5月ごろ、谷沢をしのぶ会のポスターを見たことがある。なぜ今の時期なのかと思った。つまり、ずっと以前に亡くなっていたと思っていたのである。渡部晋太郎が、谷沢のことについて「多くの学問的業績を上げられ…」と書いているが、渡部は、何を「学問的業績」と思っているのだろうか。
 谷沢は、『文豪たちの大喧嘩 ― 鴎外・逍遙・樗牛』(新潮社2003年)で、次のようなことを書いている。

そこで、この『文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛』を以て、私に於ける文藝評論研究の卒業論文と見做したいと思う。量は多くないけれども,内容について我ながら満足しているのである。と言うことは、この一巻が私の能力としては、筒一杯に頑張ったといういう意味である。泣いても笑うても、これ以上の研究論文は書けないと思う。心ひそかに本書を私の代表作に擬している次第である。(9頁)

 谷沢自身がこれが精一杯だと言う。見栄をはることがなくなった谷沢は、もう虚勢と現実とのギャップに悩むこともなくて済むらしい。谷沢は、「文芸評論研究」と言っている。文学とか文芸評論といわずに、少しずらした言い方である。谷沢には、創作ができるわけではなく、文学そのものを研究するだけの覚悟も無く、能力にも欠けたものがあるという自覚もあったのだろう。文芸でもなく、文芸評論でもなく、「文芸評論」の「研究」とは、二重に防弾チョッキを着たような、貧相な自分を守る周到な防御のように見える。
 本を読むのは好きだが、文芸のセンスはないと、既に自分自身を見切ってしまっているのではないか。そんな自分が、本格的な文芸評論などできるわけがない。しかし、文芸そのものではなく、文芸「評論」なら、谷沢のような「人たらし」にとっては、結構なぶりやすいと考えたようである。ここに多くのつまらぬことの源がある。
 吉本隆明が、文学の評論というものを、文学作品の従属物ではなく、それ自体でも作品であるという趣旨のことを言っていたことがある。
 谷沢の文は、自分で言うように雑文でしかない。谷沢が、自らの代表作だとする「研究論文」とやらまで、雑文臭がつきまとう。ご丁寧に、本題を二重にはずしたせいだ。鴎外・逍遙・樗牛など明治を代表する文学者を登場させながら、その存在感を希薄にすることに努めている。もともと、これらの存在が虚構なのであれば、それは、大した作業だと思う。
 谷沢の「代表作」は、主に鴎外をターゲットにしたつもりのようである。鴎外には、大量の翻訳、翻案があるが、創作だけでも『舞姫』や『うたかたの記』を発表し、『ヰタ-セクスアリス』『青年』『雁』などを經、『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』を書き、『渋江抽齊』『伊沢蘭軒』で表現し、さらに『高瀬舟』のような作品もある。それらに表現されたものを受け止め得ず、かつ、その表現を理論化しようとしていることを、低俗な手法で茶化すなど、文学を生業とするものにとって許されることではない。谷沢は本当に鴎外の何を読んでいるのか。鴎外の作品に、当時の日本では、ほとんどなじみのなかったヨーロッパの哲学潮流が、さりげなく出てくる。吉本が、漱石の作品を例に述べる三角関係の構図は、ここにも見られる。
 谷沢が、鴎外になにか言うなら、少しは判ってからにすべきである。全く稚拙としか言いようがない。
 そんな、谷沢も、少しは、本格的な文芸評論を志そうとしたときがあったかもしれない。関西大学図書館には、禁帯の谷沢自筆の「鴎外『舞姫』の評価軸」と称するものがある。谷沢が、まだ鴎外の作品と葛藤していたときのものかもしれない。雑文に生涯を費やすことになるとは思っていなかったころのものかも知れない。

二 樋口一葉の着物を「汚い」と言った谷沢
 私は、40年以上前に、教養課程配当「国語」で谷沢の講義を聴いた。冒頭、君たちは、あの入学試験を受けてきたのだから定期試験は大丈夫だ、という予告から、時間たっぷりの喋りづくめの授業だった。週に一度、寄席に通うようなつもりで、二部の学舎があった天六へ通った。まともな内容の記憶はほとんどないが、友人と楽しみに通ったのは憶えている。たとえば折口信夫、これは、「おりぐちのぶお」ではなく「おりくちしのぶ」だが、住吉中学を出たが、数学が全く出来ないので、高等学校へいけず、國學院へ進学したとかのゴシップのたぐいしか憶えていない。しかし、話のテンポがいいのか、全く飽きさせることのない喋りには恐れ入った。
 気になったことがある。何の脈絡か、正確なところは憶えていないが、その前の年、だから1965年のことだろう。宝塚のファミリーランド内の施設で、明治の文豪展があった。谷沢は、自宅も近くで、少し係わったのだろうか。谷沢が言うには、そこで一番人々の興味をひいたのは、樋口一葉の継ぎだらけの「汚い」着物だった、というのである。実は、その前年、高校生だった私も、それを見ていた。極貧だった樋口一葉は、着物(ひょっとして上に着るものでもなかったかも知れない)は、継ぎだらけだったが、それでも、品位とセンスを失わず、パッチワークのようにして、おしゃれのように気配りしたもので、清潔な印象が今でも甦る。樋口一葉の文学でないところでの作品を見たような気さえした。逆に言えば、人柄と生活がたぐいまれな文学作品となっているのだとも感じた。会場の説明文にも、簡単に書いてあった。多くの、それを見た人は、社会の底辺を書きながら品のある美事な文体の一葉作品をそのとき思い出したのだろう。
 谷沢は、「あの汚いみすぼらしい着物が、一番人気を呼んだのだ」と言った。なぜ憶えているかというと、谷沢が「汚い」と言ったことに非常な違和感を憶えたからである。谷沢は、意外なものに注目があつまることを強調したかったのかもしれないが、そのとき、「汚い」といった谷沢の感覚に私は疑問をもった。
 谷沢は、講義で、私なんぞ、それまで、聞いたことがないことを、次々に投げてよこした。「足下を見る」の話から、ステーキ屋の看板「世界で2番目に美味しい」の話があった。これも脈絡を忘れたが、「一盗二婢三妻」と教えてくれた。友人と喜んで言い合ったからよく憶えている。先輩にも言った。先輩は、「何を言うとる、誰が言うた?一盗、二婢、三妾、四妓、五妻と言うんじゃ」と言った。谷沢もええ加減やな、と思った。

三 講演「文芸評論家としての川端康成
 1968年に川端康成ノーベル文学賞を受賞したことを受け、文芸部が谷沢の講演を依頼した。谷沢は「文芸評論家としての川端康成」という題の講演をした。「日本の近代文学史で、評論家として誰が偉いか、2番目が小林秀雄だ、じゃあ、誰が一番かというと、それは川端康成だ。プロレタリア文学がどうなる、徳永直はどうなる、とか言ったこと全部があたっている。推挙し成長した作家は、多い。そういえば、今回、ノーベル賞の受賞で祝にかけつけた客に、家礼のように正装して応対していた三島由紀夫もその推挙された一人だ、といった按配である。川端康成の文学がどうのこうのとは言わずに、うまい話にもっていくな、と感心した。その話が活字になったのを私は知らない。

四 鴎外を理解できない谷沢
 歴史を書くのは、難しい。それは文学史でも同様である。後世からみることができたり、少し、離れてこそ判ってくることがあるのだが、それでも、かなりの人物やできごとを見るわけであるから、それ相当の覚悟が必要である。
 谷沢の『文豪たちの大喧嘩』、副題に「鴎外・逍遙・樗牛」と文豪を並べる。たしかにこれだけの文豪の論評を読解するだけでも大変だろう。副題にもなく、番外に「『透谷全集』書き入れ」が付されている。
 重点が、鴎外に対する批判のようである。まさか、あの鴎外が、と思うようなことが書いてある。知らないものが、鴎外ってそんな奴だったのか、と思ったら谷沢のポイントである。しかし、そんな賤しいことが通ずるのは、鴎外の名前だけ知っていて、これと言って鴎外など読んでもいない者にだけである。とにかく、この谷沢の代表作『文豪たちの大喧嘩』は卑しい。理由は、自分にある卑しいところへ明治知性の代表的存在をひっぱりこもうとするからである。少年期には山陰の小さな城下町で知的訓練をうけた青年が、東京、そして伯林で当時世界の最先端の教養と格闘しているのは、鴎外の作品にある。
 谷沢なんぞ、当初から、そんなこと放棄している。鴎外の激しさなどわかりようがないのである。なにげなく鴎外の「かのように」を読んでみる。時代は既に、いくつかの少々詳しい注がないと、読めなくなりかけている。「プラグマチズム」が出てくる。それは、カント系の思想として出てくる。鴎外が、きちんとした教養の持ち主だったと判る。『中央公論』1912年1月号に発表された作品である。谷沢に鴎外を揶揄する資格など最初から無いのである。
 
五 悲劇か喜劇か
 谷沢の代表作『文豪たちの大喧嘩』の卑しさは、谷沢の知識や教養の拙さに由来する。『文豪たちの大喧嘩』には、「谷沢流『人物・事項』コラム」というのがある。この「谷沢流」というのが、谷沢の底を露呈している。一部は、前に言及した。荻生徂徠の項である。徂徠が、仁齊の返事をもらえなかったことを大袈裟に書いている。仁齊の晩年のことでもあり、実際に何があったかわからない。しかし、その後の展開をみても、大袈裟にすることでもない。谷沢には、そういうずれたことに固執して、何かを言ったつもりになる風があり、しかも、それに載せられる大馬鹿者が世間にはいる。吉本が、谷沢名できたアンケートのことを、お前(谷沢)の言う実証とやらは、このことか、と言った類の話を、論争などと大馬鹿者たちが言い、その用紙は、吉本が捨てた(と最初の吉本の文には書いてあったと思う)か、出版社がもってかえったとかの話にすり替わり、吉本にすれば、どうでもよいことなので、適当に言っていると、呉智英なる大馬鹿者が、「吉本の負け」と書いているそうである。文学とか、評論することの意味の判らぬ谷沢に「実証」ということが判るわけがない。そのことを、吉本が指摘しただけの話なのだ。それを解さぬ呉智英は、単なる馬鹿ではなく、大馬鹿者だ。
 森鴎外の項には「漱石に嫉妬して対抗したが漱石は無視した」と、下司の感覚をそのまま推しあてて書く。文学も評論もしない、できないで、評論の評論をしていると、拠り所は下司の感覚しかないらしい。嫉妬による対抗心から、どんな作品が出来たというのか。
 内藤湖南の項も谷沢流である。

内藤湖南 本名虎次郎。シナ学者。生家富裕ならず、秋田師範卒。新聞記者を経て京都帝大教授に指名されたところ、文部省が、たとえ孔子さまと雖も大学を出ていない者は大学教授に出来ないと阻止したのを、木下弘次総長の奔走で漸く実現した。稀代の蒐書家で亡くなったとき『恭仁山荘善本書影』(昭和10年)には、国宝9点が蔵されていた。『日本文化史研究』(講談社学術文庫)と『先哲の学問』は学に志す者必読の書である。嗣子乾吉が全集14巻を編んだ。

 前半、諸情報相乱れるところを、平気で書いている。この良い加減な断定が谷沢流、湖南が京都帝大講師時代をとばしているが、この事件の主要な登場人物としては、木下弘次というより、ふつうは狩野直喜を話題にする。そうしないのは、谷沢流蘊蓄かもしれない。しかし問題は、そのあとである。湖南の紹介に、どうして、「蒐書家」であることが最初にくるのか。谷沢は、どうして湖南に本があつまってくるのかという意味がわからないのだろう。さらに、入門の意味で言うのだろうが、わざわざ湖南の著書名をあげるのに、いずれも日本のことについて書いたものをあげている。確かに、学問の方法などで、その意味でも国境は問題ではないが、それにしても「シナ学者」湖南の著書で、先ず読む本としては、日本史や日本人先学を対象にした本をあげるのも「谷沢流」の底の浅さなのだろうか。
2006年3月、日頃、傲慢な書き方をする谷沢が「藤本先生」と敬意を隠さない藤本進治の『認識論』が、山本晴義編・解説で復刻出版された。そのとき、こぶし書房『場』№31は、藤本進治『認識論』特集と銘打っている。それに寄せた谷沢の文がある。谷沢の文に、藤本の著書にはみられない藤本の言葉が書き留められているのは貴重である。谷沢は、しかし、次のようなことも書いている。

現在の私が見るところ、日本の論壇や学界に、この学説を誰が最初に提出したのか、つまり創唱権(プライオリティ)を無視黙殺する反倫理(アンチモラル)が一般化している.。藤本先生は、『資本論』の注記が、引用する先賢の理論について、必ずその初出(しよしゆつ)を確認していると指摘された。以後の私はその厳粛な手法を堅く守った心算(つもり)である。(4頁)

 谷沢の、中村幸彦とか藤本進治といった人物に対する傾倒ぶりには目を瞠るものがある。これは、谷沢がアホではない証拠である。ところが、その傾倒する人物の言ったことを、引用のように理解していたとは……、谷沢も本当は判っていなかったのか、と思わざるを得ないのである。
 谷沢によれば、藤本も、マルクスも、プライオリティには厳密な人である。藤本がそういうことを教えてくれた。そして、谷沢自身そのことを心掛けているというのである。谷沢は、尊敬する「先生」に直接受けた指導をまるっきり理解していないのである。谷沢は、基本的な、いわば藤本が『認識論』で説いたことを理解していないのである。そんなにアホだったのか、と納得するのは寂しいものがある。
 藤本が、引用する学説の典拠を明確にし、資本論の引用についてもそうだろうと谷沢に教えたことはあったと思う。しかし、それはプライオリティのことではない。そのような学説が成り立つ条件を特定するために、初出を明記しているのである。観念的な議論ではなく、いずれが先か、二番煎じかということではなく、その議論は、如何なる条件でこそ合理的で、どの条件でこそ成り立ちうるのか、という問題なのである。藤本に師事していたことを、自身の自慢として語る谷沢なのだが、直接師事した藤本の丁寧な教えを理解できないままだったのである。谷沢が自分で、論理的な、実証的な論文を書いていれば、そんなことはすぐ判るはずなのである。確かに、谷沢はそのような文を書いたことがないから、判らないのである。たまたま、何かを言っても、それが、特定の根拠や条件で特定できなければ、それは何の意味もプライオリティももたないのである。
 そんなことでは、後続の者が、参考にできるほどの論文一つ書けるわけがないだろう。渡部晋太郎は、「多くの学問的業績」などと、見もしないこと、つまり嘘を書いてはいけない。
 尤も、渡部には、学問も雑文も判らないので、嘘だという自覚はないかも知れない。