谷沢永一の恥の上塗り……『文豪たちの大喧嘩』ちくま文庫版(解説・鷲田小彌太)   筑摩と鷲田の出版責任を問う

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 ちくま文庫の新刊リストに谷沢永一『文豪たちの大喧嘩』が入っているのをみて訝しく思った。解説が鷲田小彌太であることもげんなりさせた。鷲田というのは、少しは有能な人だと思っていたからである。
 「文庫」というのは、今は単なる廉価本も現れてはいるが、やはり、古典に準ずる地位と見なされる傾向もあるし、出版社の見識を表すことにもなるだろう。
 谷沢が、結局、これという本どころかこれといった文章一つ書けなかったことは、既に言った。谷沢も最初から、雑文を書こうと思ったわけではないだろう。しかし、雑文しか書けなかったのである。雑文とは何か。端的に言って魂の入っていない文である。だから、いわゆるエッセーではない。
 谷沢の文は、魂の抜けたゴシップばかりである。これを雑文と言う。なぜ、こうなったのか、谷沢は、正面から、人間や作家に迫ることが出来なかったのである。ただ、生身の相手の弱点を見抜いたりすることには長けており、力量のある人に訳もわからず、掛かっていくバカの「蛮勇」ごときものは一切持ち合わせていないという智恵はあった。
 どうもそれは、どこかの政党の地区レベルの官僚として磨きあげられた感覚でもあるようである。
 そのレベルの官僚らしく、自分の力量に合うように、課題を限定し、リスクは避けた。しかし、基本的に、力量不足のせいで、周辺の顔見知りの住人には、はったりが効いても、少し距離をおけば、その力量不足は見え見えなのだ。その無惨なものを「ちくま文庫」などにすれば、その悲惨な姿が世間に曝け出され続けることになるということが、ちくま文庫担当者も、鷲田小彌太も分からなかったというのが悲しい。

(2)
 鷲田の解説に変なところがある。

作家には「わたしの一冊」がある。先生自身、その一冊に何をあげるのか、ついうかうかとして聞きそびれた。もちろん「わたしの一冊」は時期によって異なる。わたしの見るところ、「彫琢の一冊」といえば『文豪たちの大喧嘩』をおいてない。

と鷲田は書いている。ところが、谷沢は、その序で

そこで、この『文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛』を以て私における文藝評論研究の卒業論文と見做したいと思う。量は多くないけれども、内容について我ながら満足しているのである。ということは、この一巻が私の能力としては、筒一杯に頑張ったという意味である。泣いても笑うても、これ以上の研究論文は書けないと思う。心ひそかに本書を私の代表作に擬している次第である。

と書いている。この谷沢の言を解説の鷲田が無視しているのも変だが、谷沢が「心ひそかに」代表作に擬している筈なのを、それを谷沢自身がおおっぴらに書いているのも笑ってしまう。これでは、谷沢は、まともな文を書くのは難しいだろうと思ってしまう。

(3)
 谷沢は、文藝評論史を研究主題としたと自らを限定する。これは、文学を分かっていないし、舐めているのではないか、と推測せざるを得ない。創作など文学そのものをやるわけでもなく、また文藝評論もできずに、プロレタリア文学などを官僚的にみていた経緯からくるものだろう。
 この、谷沢の代表的な雑文集が不愉快なのは、鴎外を極めて低俗な視点から嬲っているからである。鴎外は翻訳の仕事だけでも超人的である。前田愛の研究によれば、鴎外はドイツに渡る前に、相当の中国の白話文学を読んでおり、そこで、舞姫のエリスの姿はすでに作られているというのである。前田は、ベルリンの少女がどうしてエリスなのかということも問題にしている。谷沢が、鴎外に言及するなら、前田の研究は知っている筈だ。少しの知的羞恥心もないのかと思う。

(4)
 谷沢は、自らを書誌学者と呼ばれることを望んだという。これまた書誌学を知らない者の言い方である。
 この文庫版も当然ながら、谷沢流「登場人物・事項」コラムなるものを付けている。これが、前にも言ったように恥ずかしい。不愉快である。谷沢流と称して、下劣なかんぐりを書き連ねている。鴎外が漱石に嫉妬して対抗した、とか、荻生徂徠が仁齊を一生怨み憎しみ通したとか、どんなつまらない通俗小説にもならないようなことを書き並べている。 
 谷沢がこの本で書いているのは確かなことなのだが、もう何処に書いていたのかは見直すことも無いと思ってどこにか書いていたかは忘れた。次のようなことを書いていた。つまり、鴎外は、全集に収めるにあたって自分の文に手を入れている、逍遙はそのままにしているといった趣旨だった。谷沢は、これを鴎外を貶めるため、逍遙を称揚するために書いているつもりだ。如何にも、出鱈目を垂れ流す谷沢流である。人に読んでいただくものである。直すのが本筋だ。趣旨を変えるようなことをすれば、脈絡が合わなくなってしまう。論旨を変えることなど出来る筈はない。谷沢は、雑文以外に書いたことがないので、自分の書いたことについての吟味などしようがないのである。これは、文を書く者にとっての決定的な資質を欠落した者の言であると言わざるを得ない。
 鷲田小彌太も、このような人物の文庫本の解説を書くことで、非常に残念な姿を曝してしまったようである。
 内藤湖南の項がある。短い量で、その人物を描くのは難しいが、半端なことを書いて、誤解を生むのはもっと問題である。谷沢は、内藤湖南について、ゴシップ以外の何ほどのものも知らないのである。谷沢にとっては、内藤湖南といえば「稀代の蒐集家」である。おかしいのは、この稀代の中国学の大家について、「『日本文化史研究』(講談社学術文庫)と『先哲の学問』(筑摩叢書)は学に志すもの必読の書である」と日本関係のものだけをあげていることである。
 荻生徂徠の項で、谷沢は、「古典はその国のその時代の言語で読むべしとし、古文辞派と称された」と、自身が旧制中学の低学年時に注入したような知識を書いている。高校生が利用している漢和辞典(『新字源』)の記載をみてみる。「【古文辞(辭)学(學)】明の李攀竜・王世貞などが唱えた文章学の一派。文は前漢以前、詩は盛唐以前を理想とし、宋学を排したが、その文は古書の模倣の域を出なかった。日本では荻生徂徠がこれにならい、経書の解釈にも応用した」と書いてある。文章学の一派なので、古文辞学と言っている。古文辞派とは、あまり聞かない。
 これは、一例である。文庫にするのなら、直してもらわないと、「害」を垂れ流すことになる。
 もとより、谷沢の問題であるが、文庫として刊行したのは、筑摩書房鷲田小彌太の責任のもとである。