大塚信一『山口昌男の手紙−文化人類学者と編集者の四十年』(トランスビュー)2007-8 』……「評伝・山口昌男」大塚版


 もう4年前に出ていた本のようだが、最近、ブログか何かで、本書は、四方田の『先生とわたし』の大塚版だとか「悪口」が出ているのを見るまで知らなかった。また、「60年代、70年代の残党て、メッチャ、キショイんだよっ。」(高山宏)などというのがあった。これは、凄まじく世界を拡大していっていた時代の山口の兵站をしていた著者の微妙な思いを忖度しない言い方だ。
 四方田著の場合、由良君美が四方田への嫉妬に加えて過度のアルコール摂取による知的衰退を起こしているというような書き方が極めて不愉快で、四方田は、逆に自分の駄目さ加減を自己暴露していただけだった。それと同列にしてもらっては困る。
 大塚が、偉くなった山口昌男に違和感をもつと同様、偉くなった(岩波書店社長)大塚信一に山口も違和感をもった、ということみたいだったが、かつての関係でなくなったことを寂しく思ったということにすぎないように思う。

 二
 誰かが、(”二度目は”とあったか)巨匠の手紙だけを読めばよい、と書いていたが、やはり大塚のコメントが入ってこそのものである。
 大塚は、山口の「(大塚君の)出世ぼけ」という言い方と、「(編集者という)奇妙な存在」という言い方に不快感を覚えたようである。
 また、会社からハイヤーを回してくれないか、という電話に、即拒絶した話しも紹介する。
 この本のなかに、山口が麻布の教え子でもある六本佳平に冗談を言ったところが、悪くとられ絶縁になったエピソードがあった。
 山口の軽口の「出世ぼけ」とか、「奇妙な存在」というのは、やはり、変な言い方だけど、山口の、ちょっと屈折しているかもしれない、あるいはそうでもない「愛情表現」のように、傍目には聞こえてしまう。やはり、大塚が、意欲的に、少々の野心もこめて、出版業界に、しかも岩波で、新しい世界を開いていたときとは違う、かつての野心的だったその人物が、組織全体を束ねていることに対する、なんとも言えない思いが、変な言い回しになっただけと、遙か遠方からは思う。
 編集者といういうより大塚を、「奇妙な存在」というのも、山口にして言えることだろう。というのは、大塚の学識と言い、センスと言い、並みのものではないことを一番に知っているのは、山口だろうから、山口にしてみれば、その大塚が、「控えめ」ということ自体が、奇妙でもあったと思う。我々が、せりか書房の話も聞いていれば尚更である。そのことは、大塚の『理想の出版を求めて』を読んだ山口が、すぐに電話を掛けてきたことでも判る。


 ハイヤーのことだが、かつての山口だったら、タクシーでも乗り付けただろう、というのである。偉くなったから、ハイヤーか。あまりに通俗的すぎる解釈ではないかと思う。
 会社にハイヤーを回してもらうことで、大塚を介した関係ができるきっかけになりうるという配慮もありうるのではないかということを、大塚は思わないのかなと思う。山口昌男は、そんなに耄碌していなかったと思う。大塚は即刻拒絶したと言う。即刻ではなかったら、山口の深謀遠慮というほどのことでもない思いつきくらいに思ったのではないか。
 大塚は、山口がそれこそ周縁の存在だったころから師事し、世界的な知識人として成長していくのをサポートしつづけた。大塚は、山口が周縁的存在ではなく、中心的存在になってきたことに違和感をもっている。しかし、山口は、絶えず、周縁と中心の往還を説いていて、ICUの助手時代から、中心でもあると思っていただろう。というより、通俗的に考えれば、あるいは、我々にとっては、『史学雑誌』の編集をやるなどというのは、決して周縁的存在などではありえないのである。周縁と中心を往還することを言いながら、実際には、拡大する世界のその最縁でサーフィンでもしている山口のイメージが、急に秩序の中心部のような印象に、大塚は、違和感を覚えたようである。
 しかし、評伝を書くのはとても難しい存在である山口昌男という人の評伝が大塚信一ならではの作品として出来上がったと思う。


 大塚は、世界を舞台に、広がっていた山口の世界が、対象が、日本文化になったり国内の知識人相手の対談を多くこなしていることに、山口の世界が萎縮した印象をうけたのであろうか。
 しかし、『知のルビコンを超えて』(人文書院1987)、『古典の詩学』(人文書院1989)は、それなりの知識人相手であり、山口も準備を怠らない様子は、なんらかわらない。
 ところが、唯一、『知のルビコンを越えて』の谷沢永一のは少し変である。山口は、事前に相手の世界を猛烈に勉強していて、自分の課題とスパークするのであるが、谷沢には面喰らったようである。谷沢の書いたもので印象にあるのは、山口の「本の神話学」連載を誉めている、谷沢と向井敏の『書斎のポ・ト・フ』(潮文庫)だけで、それも、谷沢の方から言いかけたことである。
 谷沢は、山口は、1年にどれくらいフィールドに出かけるか、とか幼稚(ナイーフ)な質問を繰り返すだけである。関大の先輩だと思うと恥ずかしくなる。なにかつまらない質問を断られて、それでも「では、”浅田彰ブーム”についてぜひ」などと、どこまで恥かくのか、と思う。山口は、またか、といった調子で、今朝も、テレビに起こされて”浅田ブーム”について聞かれたので、『サンデー毎日』に一度だけだと言って発言しているので、それを見るように言った、と言っている。
 「知のルビコンを越えて」は、西部邁との対談についたタイトルのようだが、西部でもそれなりに果敢に、山口に迫っている。それは、西部は、まがりなりにも専門があったわけだが、谷沢は、誤魔化し誤魔化しきたつけがまわってきたようだった。おそらく、もう谷沢とは話すことはないだろうと思っていただろうが、何年か後、山野博史を加えて、日記について喋っている。『歴史読本』特別増刊(1994.4)の企画で、『知のルビコンを越えて』に入っている対談よりは、様になっている(『はみ出し(ステップ・アウト)の文法 ―敗者学をめぐって』2001.平凡社)。しかし、これも、基本的に谷沢が山口の話を聞くことになってしまっている。谷沢も少しは、文学者の日記を読んでいるので、対応はできるのだが、大きく山口が触発されたところはない。谷沢が苦し紛れに「雑学」など言い出すので、山口が喜んでいるくらいである。
 しかし、大塚が懸念するようなのは、目立つのは、このあたりだけである。同じ国文学でも、乾裕之や前田愛といった「研究者」との対談は、充分に面白い。