関西大学生活協同組合『書評』の惨状② ―『書評』編集委員長吉田永宏に質す

一 木村愚門「山桜の蔭に」(『書評』№121)
 『書評』№121(2004/4)に、社会学部教授だとする木村愚門なる人物の「山桜の蔭に」とする文が掲載されている。不快感から、なかなか読み進めない文である。
 木村の文は、「少年Aについて、事件直後に学生にたずねたことがあった。『少年Aはおぞましいと思う人は?』……」ではじまる。「少年A」というのは、かつて、西神戸で起こった酒鬼薔薇という名前のメッセージで知られた事件のことだろう。確かに事件の発現から、現実ばなれしていた。その後、絶え間なく「おぞましい」情報が流されていた。受け取る情報は「おぞましい」ものばかりである。そのとき、木村は、大教室で、「おぞましい!と思う人は?」と聞き、手をあげたのがほんの少数で、「かわいそう!と思う人は?」と聞くと、多くはないが、その倍は手をあげたという。
 木村は、「おぞましい」という情報に、「おぞましい」と反応しないのが変だと言う。何かおかしいのじゃないかと言っている。
 しかし考えてみると、「おぞましい」とは日常的な感覚を超えていることなので、本当に何があったか判らないのである。どれだけ事件が解明されているか判らないところで、新聞・テレビ・週刊誌など、「おぞましい」ことの洪水のなかで、「おぞましいと思わないか?」の如き、同義反復を強いる乱暴なアンケートである。しかも、それを大教室でやっている。そういう乱暴なことが教室で行われていること自体が「おぞましい」。
 異様な事件に対して、異常な報道が続いているとき、ちょっと退いて、本当に何があったのかと、無条件に反応するのを躊躇うのは、学生としては、正常な感覚だ。木村は「おぞましい化け物」と言っている。「化け物」というのは、自分と違う存在だと思うことである。自分とは違う、なにかおぞましいもの、化け物だ。自分とは無関係の存在だ、ということであろう。そう答えたものが少なく、ひょっとしたら、そういう異様なことをする者に自分がなり得る可能性があると思ったものが、倍いる、このどこがおかしいのか。「化け物」として、自分〔達〕と異なるという認識のもとに攻撃するのは、「虐め」の典型である。そういえば、木村は、「虐め」をテーマにしていた筈だ。
 木村は、同情したり、相手の立場になって考えたり、弱者のことを考えるのは、ウィルスに感染している者、病気だといわんばかりのことを書いている。

二 木村愚門の怪しい語り
 木村は、次のような語り方をしている。

そのむかし、「抑圧的寛容」(H・マルクーゼ)とか「人間疎外」(K・マルクス)とかが流行った時代があった。資本主義体制のもとでは人間は「抑圧」され、自己を譲り渡し(「人間疎外」)、他者とともに幸福であることができない、という物語である。

 木村が言うには、かつて、木村も含めて、若者が、マルクーゼとかマルクスといった哲学者・思想家にかぶれて、社会運動をした時代があった。そして、そのようなことは、カンボジアポルポト政権やオウム真理教の教義の類だというのである。
 しかし、マルクーゼの「抑圧的寛容」が流行ったという記憶は、私には無い。それは、抑圧論というよりは、寛容論の問題であった。確かに『純粋寛容批判』などの訳本が出版されていたが、木村自身のずれた(あるいは、ずらした)紹介のようにどれほど読解されたかは不明である。確かに、とくに近代のヨーロッパ世界の一つの徳とされる寛容toleranceの両義性を説いたもので、現代社会の特質を語るワードの一つになるかとも当時思ったが、それほど人口に膾炙したわけではない。現に、木村など、社会学を修めた筈の社会学部教授なのに、全く理解していないのである。
 「抑圧」というのも、当時叫んでいたのは、一般的な抑圧のことではない。アジア・アフリカへ侵略していた、あるいは侵略している帝国主義の、とくに本国内の反対派への抑圧を言っていたわけで、木村は、当時の人間として耳にしていたことも全く理解していないことになる。
 「人間疎外」に至っては、通俗的ヒューマニズム風の現代社会批判として、わかりやすい言い回しであったが、木村が書いているように、具体的にマルクスが「人間疎外」という言い方をどこでしていたか、ちょっと見当がつかない。尤も、Entfremdung疎外やSelpstentfremdung自己疎外は、その用語単独ではなく、『経済学哲学手稿』などで人間が自然を対象化する過程で出てくる用語で、これが、『ドイツ・イデオロギー』では、ほとんど見られなくなる問題を廣松渉が提出し、大きな話題になっていたことがある。
 木村の文章は、微妙に、ものごとや歴史を、愚劣に愚劣に捏造していく手法である。微妙どころではない、乱暴な、低俗デマ文の典型である。つまり、デマゴーグの手法である。このような文が『書評』に掲載されるとは、『書評』も舐められたものであるが、嬉々として掲載する編集者が問題である。本当に、変だと思わないのか。ちょっと信じられない思いである。
 この本当は掲載されるべきではない文は、実に、関大を、『書評』を、関大生協の組合員を舐めた文章である。こんな出鱈目な文章が通じると思っているのかと思う。こんなひどい文章は、高校生でも退いてしまうだろう。しかし、編集を担当していた《M》には、感激をもって受け入れられたようである。
 木村は、次のように拙いデマを続ける。メタファーなどというものではない、拙いデマにすぎない。

 いま日本はふたつのウィルスに冒されて死にかけている。ひとつは「プロパラ」、もう一つは「コロアカ」というウィルスである。

 プロパラというのは、プロテスティング・パラサイトの略で、コロアカというのは、コロニアル・アカデミズムの略だそうである。カタカナを多用して、センセーショナルに宣伝したいのは、労働組合から住民運動など全てを、抗議(プロテスト)をネタにゆすりとる寄生動物(パラサイト)だとする、明治時代にも見られなかった愚劣な感覚だ。イギリスでは19世紀のはじめに合法化されたユニオンが、日本で合法化されたのは、やっと第二次大戦後のことである。長い歴史を経て、ようやく確立してきたか、と思うと、また酷い状態になっている。その崩壊が、逆に生産にも、労働者の生活にも、安全にも大きな陰をおとしていることは、かつてはなかった事故の頻発一つで判ると思う。だいたい、労働のないところで価値が生まれることはないので、金融工学などというもののまやかしが、少しは明らかにされはじめたころであるが、そういうことでは、資本家が生産者に寄生しているともいえるわけで、組合をパラサイトなどとは、経済学を少し勉強しはじめた者でも言えないことである。これこそ、ためにする「デマ」の典型である。この拙劣なデマを指摘できない編集者なども、本当に社会的害毒である。『書評』編集委員長吉田永宏は、全くその責務を果たしていない。
 組合などが日本で合法化されたのは、苦難の末、やっと戦後になってからである。そこで木村は、コロアカなどというデマを続ける。「このコロアカ・ウイルスに冒されると、外の国を崇めてに自国を恥じ、自分たちの祖先を罵るようになる。代表が『西欧近代』を崇めた「近代主義者」で、その総代格が故丸山真男である」とする。無条件で自国を尊重するのは、「我執」と同じで論外のことだ。私は、このような人物が、日本人というのなら、日本人とは、絶対に思われたくはない。丸山真男の代表的な研究は、誰でも言うように『日本政治思想史研究』(東大出版1952)である。1944年、召集されるまでに書いたものである。木村は、読んだのか。読んでいたら、アホなことは書けなかっただろう。日本の江戸時代に、ヨーロッパのルネサンス以降の政治思想に比肩しうる合理的な政治思想を見出そうとしたものである。『日本の思想』(岩波新書1961)くらいも読んでいないのだろうか。何も勉強もしない、考えもしないで、ウィルス妄想に耽っているとしか思えない。
 このような文章を、よくも掲載したものだと思う。


三 社会学者を自称する木村は、戦争は破綻の結果だと判っているのか
 木村は、「そろそろ否定の夢と自虐の偽善から目覚めて、自前のものをつくりあげなければ、この国は(おそらくこの大学も)本当にあぶない。それぞれの志への敬意のもとに、もてる力を結集すべきときが来たのだ」などと書く。何もないから「自前のもの」などと妄想する。自前のものは、思想で言うなら、丸山真男が考察していたのだが、木村には理解できなかったらしい。ひょっとして、自前のものなどと言って木村は、思想のことではなく、軍備のことを仄めかしているのか。
 そういえば、この木村の最後の文は、1945年に特効で消息を絶った関西大学校友緒方襄の残していった歌と母の返歌である。それはとても悲しい。木村は、「この春、ぼくはせめて、裏山に咲く一本の山桜の古木に酒を捧げよう、とおもう」などと、メルヘンのような閉じ方をしている。
 木村は、学徒兵が、古参兵にどれほどの暴行をうけたか、という話を聞いたことも無いのだろう。今でも、雨の神宮外苑の学徒兵壮行会の映像が流されることがある。ときの軍部や政府は、戦意高揚を狙って、ほうぼうで上映したらしい。実は、それが、各地の農民兵ルサンチマンを煽ったのだ。古参兵の虐待を逃れるための幹部候補生にならなかった学徒兵のほとんどが、数少ない恵まれた階層出身者として、軍隊では、古参兵の暴行を受け凄惨な目にあっている。
 NHKスペシャルで、「陸軍特別攻撃隊」の実態を見た人もあるだろう。陸軍の航空隊は、自分たちが皇軍だとして、学徒兵の特別攻撃隊には、碌な飛行機を回さなかったという。中国東北部で輸送用に使用されていて、古くて短時間しか飛べない飛行機とか、とにかく惨憺たる有様だったようである。酒を捧げておわるようなものではないのである。緒方襄は、沖縄近海へ飛び立ったというが、たとえ攻撃されなくても、目的のところまで到達しえたかどうかという飛行機だったらしい。そんな大規模な狂気を、しかも一様でない意識の錯綜を、きれいごとで終えるなどとんでもないことだ。
 学徒出陣といえば、1949年に東京大学生活協同組合によって編集出版された『きけわだつみのこえ』がある。戦没学徒兵の遺書をあつめたものである。今、『新版きけわだつみのこえ』として岩波文庫として出ている。
 出撃前に認められた遺書がほとんどであるが、Ⅲの「敗戦」の章に纏めてあるのは、病死のものである。しかし、その最後の文として編まれている木村久夫のものは、少し異なる。編者の紹介文には、
  1918年(大正7年)4月9日生。大阪府出身
  高知高等学校を経て、昭和17年京都帝国大学経済学部に入学
  1942年10月1日入営
  1946年5月23日シンガポールチャンギー刑務所にて戦犯刑死。陸軍上等兵。28歳
とある。
『きけわだつみのこえ』に収録された「処刑半時間前擱筆す 木村久夫」と書かれた遺書は、紙が許されなかった刑務所で、遺品の田辺元『哲学通論』の余白に書かれたものである。
 日本軍が占領していたベンガル湾のカーニコバル島で、戦争末期に85名の島民が消えた。日本側の説明では、イギリス軍機に信号を送っていたというスパイ容疑で島民を取調べ処刑した(尋問中の死者3名、自殺者1名、81名が銃殺)というのである。英語ができる木村久夫上等兵や臺湾原住民の安田宗治軍属は、通訳として、その取調に係わらされた。その結果、シンガポール英国軍事裁判所では、木村・安田も、尋問中の虐待に関与したということで、C級戦犯として死刑判決を受け、処刑された。
 「千里山会」という、吹田市の千里第二小学校の同窓の方の親睦会がある。その会誌第2号に、「亡き木村久夫様を偲んで 二回生からのメッセージ」という編集部の柿崎眞吾の文がある。そこにも、引用されているが、木村久夫の長文の遺書の一部を紹介する。

私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。年齢30に至らず、かつ、学業半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。波瀾の極めて多かった私の一生はまたもや類まれな一波瀾の中に沈み消えて行く。我ながら一篇の小説を見るような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いて来た。大きな歴史の転換の下には、私のような陰の犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである。

日本は負けたのである。全世界の憤激と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るの全く当然なのである。今私は世界全人頭の気晴らしの一つとして死んで行<のである。これで世界人類の気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。

私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。しかし今の場合弁解は成立しない。江戸の敵を長崎で討たれたのであるが、全世界から見れば彼らも私も同じく、日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように見えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやと言うほど他国人に強いて来た事であるから、あえて不服はいい得ないのである。彼らの眼に留まった私が不運とするより他、苦情の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んでいける。

 木村久夫の遺書は、高知高等学校の恩師塩尻公明によって紹介され(塩尻公明『或る遺書について』新潮社1948)、先述したように『きけわだつみのこえ』の巻末に収められている。
 2001年12月、木村宏一郎『忘れられた戦争責任 ―カーニコバル島事件と台湾人軍属』(青木書店)が出版された。法政二高の社会科教員であった木村宏一郎は、木村久夫と共に刑死した台湾人軍属の日本軍通訳日本名安田宗治の生と死を解明しようとした。そこで、最も謎が多いカーニコバル島住民虐殺事件を解明するため、シンガポール英国軍事裁判、そして判決後、裁判所に提出したが、手続き上認められなかった木村久夫の判決後の上申書の内容の解明を図り木村久夫の無念をも思い、台湾人軍属安田宗治の生涯を追った。
 木村(宏)は、「安田宗治」の遺族を訪れることは勿論、ロンドンにとび、イギリス公文書館(PRO)でカーニコバル事件の裁判記録を閲覧謄写した。
 しかし、木村(久)の上申書は、見いだせなかった。終戦一週間前の島に閉じ込められた日本軍の疑心暗鬼の様子の幾分かを、木村(宏)は丁寧に叙述している。木村(久)は遺書で「今度の事件においても、最も態度の卑しかったのは陸軍の将校たちに多かった。これに比すれば海軍の将校達は遙かに立派であった」と述べるのは、軍事法廷でのことかと思うが、遺品を遺族に託した上田大佐がいなければ、終戦まで生きておれたかどうかと言っているのをみると、戦争中から陸軍将校は酷かったのであろう。
 木村(宏)は、誰もが、口にしないことであるので,実際に何があったのか、判らないままであるが、明らかにイギリス側も不思議に思っているようなことについて、記録などにあることに限って述べている。一つは、処刑などされた90人近いカーニコバル島住民の死体が無いということである。日本軍は、銃殺にしたというので、何処に埋めたというと、火葬にしたので無いというのである。房日新聞2009年8月19日の磯崎勇次郎氏の証言によると、トラックに積んで、遺体を砲弾の穴に放り込んだということらしい。イギリスの取調のとき、そのようなことの証言がどうして無いのか。当初、虐殺の痕跡を隠すために本当に焼却しようとしたのかも知れない。とにかく、木村(宏)が調査した段階では、調書では、火葬にしたとかいう理由で、裁判して銃殺にしたという証拠が確定しなかった。それに関して、木村(宏)は、驚くべき証言を引き出している。傷病兵が、精を付けないと、と言われて、豚の肝を焼いたものが食事にあって、当時の食料事情の困窮はよく知っていたので、まだよくあったなあ、と思ったというのである。現地の人はもともと野豚を食していたので、そのときは偶々捕獲できたのかと思ったが、不思議な感じがしたので、よく覚えているというのである。
 木村(宏)は、そこまでで終わっている。木村久夫は、遺書で「あらゆるものをその根底より再吟味する所に、日本国再発展の余地がある」と述べる。カーニコバル島で、実際に何があったのか、木村も裁判では、自己は潔白であることは言っても、多くは言わなかったようである。それが、忌まわしいことも含むことであれば、当然に伏せられたということは想像できる。それだけに、隠すことは、決してためにならないと決意して書かれた上申書に何が書いてあったのかは課題として残る。
 今、長々と、BC級戦犯として、チャンギー刑務所で刑死した学徒兵木村久夫の遺書や木村宏一郎の著書を紹介したのは、木村愚門が、「そろそろ否定の夢と自虐の偽善から目覚めて」、力を結集しろと言い、特攻で散った校友を思い、「山桜の古木に酒を捧げよう」などという、多くの学生が信じてもいなかった皇国思想に酔ったような言葉で文を終わっているからである。
 「否定の夢と自虐の偽善から目覚め」などと木村愚門は言っている。木村愚門は、未だに皇国思想を否定できないでいるのか。ニューギニアで、フィリピンで、マラリヤなど病気と飢えて死んでいった国民は、「自虐」なのか。南の島で、傷病兵だけが、飢えている多くの兵士を前に、豚の肝をどうして食うことができたのか。ながながと紹介したのは、木村愚門の文が、どれほど愚劣かということを説くためにである。、 
 『書評』№122で、『書評』編集委員長吉田永宏は、「『書評』を表現・発言の主体的な場とし編集体制の確立へ」などと書いている。木村愚門のようなデマまで「表現・発言」というのか。問題は、編集体制なのか。「体制」の問題ではなく、それ以前の問題だろう。
 『書評』編集部は、木村愚門に「ちょっとおかしいではないですか」と一言の質問もできずに、逆に、訳も判らずに感心して、むしろ木村の愚行を煽った痕跡がある(№123木村掲載文)。
 編集後記になるところには半田美宇史の名がある。編集委員長は№122にある吉田永宏だろう(他の号には、吉田の名などがないのも非常識で、この『書評』という冊子は、とても、思想や研究を扱える者の仕業とは思えない)。挙げてきた問題は、決して難解なことではない。高校でも大学の教養課程でも学習しうることである。このような低劣な(つまり高度ではない)デマをチェックし得ないというのは、ちょっと困ったことである。思想や研究を表現する文を編集する資格あるいは能力が欠如していると思わざるを得ない。そのような能力が欠如したまま、雑誌などを編集刊行すると、容易く木村愚門のようなものに利用されてしまうことになるのである。これも歴史が証明するところである。
 木村久夫は、国民の苦難、敗戦の責任は軍部にあるが、満州事変以来の軍部の行動を許してきた全日本国民にその遠い責任があることを知らねばならない、と述べる。日本はあらゆる面において、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的の試練と発達が足らなかった、と刑死直前の遺書で述べる。
 『書評』編集委員長吉田永宏も、木村久夫の遺書を読んだことがあるに違いないと推測する。木村愚門のような文を、躊躇いもなく掲載したことについて、何も感じないのであろうか。

四 注記
 以上は、『書評』編集委員長への疑義が趣旨である。対象とした文が、№121の社会学部教授木村愚門のものであるので、それは、木村に言うことではないか、と言うトンチンカンがいるかもしれない。あくまで、『書評』を刊行している者(たち)に対してである、と言っておきたい。
 「木村愚門」というのは、当然に筆名である。社会学部の名簿にもない。しかし、文中に「木村先生」とあり、文末にも(社会学部教授)とある。社会学部の木村教授と言えば、デレク・フリーマン『マーガレット・ミードとサモア』(みすず書房, 1995年)という翻訳を刊行している木村洋二しかいない。社会学部教授木村洋二は、2009年の8月に肺がんで亡くなったということである。今、木村の文の問題を挙げているのは、『書評』が掲載した愚劣な文として問題にしているのである。結果として死者を鞭打つにも似るが、遺された問題は問題としないわけにはいかない。社会学部教授木村洋二の活動は、『諸君』(36-6、2004-06)に、日本の新聞の「北朝鮮」「拉致」という表記や扱ったスペースの回数や量をデータに「思想分析」を行った文章を掲載していることで知ることができる。また、かつて、木村が故郷青森県八戸で「縄文祭り」を提案し、何回か催されている。鉄鍋を使った煎餅鍋の「縄文祭り」の光景が八戸市のホームページで見ることが出来た。縄文祭りの趣旨は全く判らない。縄文時代というのは、金属器のない時代のことをいい、穀物生産が行われるようになった社会の時代は、弥生時代と呼んでいる。まして、煎餅は、小麦粉だと思うのだが、それはどうして縄文祭りの主要イベントになるのか判らなかった。当地でも、疑問の声があったのだろう。当然のように止めになったが、木村は不服の意向だという記事があった。
 故人を貶めているようだが、そういう知性の持ち主だったということは、本当は、木村の講義を受けた人、文を読んだ人には、知らされるべきである。
 実は、私は、以上述べたことに№123で掲載されたことの問題をつけ、編集者Mに提示したことがある。ところが、それが、木村の文の批判と知るや否や、握りつぶしてしまった。《M》の言い草が拙劣だった。木村が「コロアカ」などといい気になっているのを、私が批判したところを見て、「レッテル貼りばかりじゃないか」と言うのである。返す言葉がなかった。それは木村が得意になっているデマ語だったからである。
 とにかく、当時Mは、木村に対する批判めいたことを聞くと、オカルトにはまった者が、救済に来た親に対してさえ敵愾心剥き出しにするその表情に酷似していたことを言っておく必要があると思う。つまり、木村の生存中に、以上のことなどは、言おうとしていたのである。そして、木村が亡くなったから、それで、終わりだということには決してならないのである。
 吉田永宏は『書評』を一気に活性化したかったそうであるが、このような文章を麗々しく掲げているようでは、活性化どころではないのではないかと思うのである。つまり、害毒を撒き散らしているのだが、そして、片付けもしないでそのままなのだが、そのことにも、編集委員長は何も判らなかったようなのである。
 その当時、見えていた悲惨さに、忠告の文をたてたが、それを受け取れないようでは、「表現・発言の場」などとんでもないことだろう。


*『或る遺書について』の木村久夫氏の実家は、千里会誌2号の柿崎眞吾氏の文にもあるように佐井寺にあって、木村氏は、関西大学法学部名誉教授高島義郎先生の義兄にあたる方でもある。決して遠いところの人ではないことを付記しておきたい。
関西大学生活協同組合『書評』の惨状②終わり