児島惟謙を“校祖”と言わなくなっていた岩崎夘一 …… 関西大学法学部の惨状・番外

一 児島惟謙についての河田元学長の無知、これを吉田栄司副学長、佐藤やよひ元法学研究所所長は笑えない
 関西大学に児島惟謙館という建物がある。児島惟謙とは、明治24(1891)年の大津事件において、政府による「皇室に対する罪」を適用せよという政治的攻勢に抗した人物として有名である。尤も、児島惟謙は、その裁判の裁判官ではない。当然に判決など下すはずがない。
 2008年に児島惟謙を記念するシンポジウムが関西大学で開催されたとき、当時の関西大学学長の河田悌一は「事件勃発の16日後の27日に、無期徒刑とする判決を児島は出します」と述べている(『ノモス』第23号、78-9頁)。河田は、児島が裁判官で判決を下した人物だと思い込んでいるのだろう。関西大学の誰が河田の無知を笑えるのか。法学研究所の刊行物『ノモス』23として印刷刊行されているのである。佐藤幸治や三谷太一郎をお招きして張り切って司会をしていた吉田栄司がそんな粗雑な間違いに気が付かないのはおかしいのである。人前で、憲法を専攻している法学部教授だとはとんでもないのである。そして、そのときも、『ノモス』第23号が原稿から出版されるまですくなからぬ時間があったが、既に法学研究所所長になっていた佐藤やよひも何も気が付かなかったのか。
 このことだけでも、我が母校、関西大学法学部の低劣化、情けなさの一端が窺えるというものである。

二 法律家ではなかった児島惟謙
 蘆田東一のホーム・ページに、近代法制史研究会(12月22日)の報告「明治刑事司法制度史と大津事件」のレジュメが掲示してある。そこに、法曹としての教育など全くと言っていいほど受けてこなかった児島惟謙が、大坂や名古屋の裁判所時代に、いかに官僚として上級機関の指示を仰いでいたかということが、霞信彦や、市川訓敏による紹介をもとに書いてある。
 霞は、当時の手続き法規である司法職務定制にもとづいた児島惟謙の活動として書いている。しかし、江戸時代の手続きを文章化したものにすぎない「司法職務定制」を近代的な司法手続きであると認識するという根本的な間違いに基づいている。
 市川訓敏の「名古屋裁判所時代の児島惟謙」は、市川にとっては數少ない、というよりは、ほとんど唯一の法や訴訟に関する論文かも知れない。要するに市川の「研究」を代表する論文というわけである。この論文は、児島らの東京上級裁判所への「擬律」伺いと東京上級裁判所からの児島らへの「擬律還付」を紹介したものである。
 市川論文の趣旨は全く読めない。上級機関への擬律伺いをどのように理解しているのかさっぱり分からない。おそらく書いた本人は、何も考えていないのだろう。そういう文書があったと並べただけなのだろう。しかし、それは、以下の理由で本当はおかしいのである。市川の文には、論理が無いということで、論文の体裁をなしてはいないのである。
 市川のこの文は、仮にも『児島惟謙の航跡』と称する冊子におさめた文である。児島『大津事件日誌』(東洋文庫)くらいは読んでいるであろう。その32頁に、検察官は行政官であるから、「不羈独立の司法官」とは異なるとある。市川は、この「不羈独立の司法官」という記述と名古屋裁判所で児島の上級機関へ稟議を繰り返す仕事との違和感を感じなかったのだろうか。
 『日誌』は、穂積らの手を経て児島の死後刊行されたもので、きれいに出来上がっている。司法官というより、官僚としての名古屋での児島の書類は、役所間を行き来したものである。単独で成り立ってはいない。つまり、きちんと整理された『日誌』の論理から、官僚としての児島惟謙を分析することもできるというわけである。この上級機関への諮問を繰り返す児島惟謙のどこに「不羈独立の司法官」を見出し得ようか。

三 関西法律学校の初代校主吉田一士と6人の講師
 昭和42(1967)年4月20日発行『関西大学新聞』第228号の第三面全部を埋めた「新たな関大構想をめぐって—『復興と転換をせまられる関大』」と題した論文が掲載されている。和田千声という学生によるものである。「復興」とは、戦後の新しい理念のもとでの復興であり、それが20年を経た現実のなかで、高度成長期のピークを迎えようとしていたときに迫られている「転換」を問うものであった。この45年前の学生の論文は、45年前の状況を踏まえて書かれたものであるが、趣旨の多くは、今でも意義をもつ。今の関西大学の運営者たちが、この学生の論文に、どれほど対抗できるのかと思うが、問題は、既にこの論文が「児島惟謙」とか「正義を権力より守れ」という言葉をもって、関大の伝統的な精神や気風をあらわすものとすることに疑問を投げかけていることである。
 和田の論文は、司法官としての児島惟謙や「校祖」として喧伝される児島惟謙像の虚実を問題にしたものではなく、関西大学の社会的歴史的意義を児島惟謙に託して語ることへの疑義を唱えたものであった。
 薗田香融「児島惟謙と関西法律学校」(『危機としての大津事件関西大学法学研究所、1992)で、児島を関大の校祖であると顕彰してきた岩崎夘一学長が自身が編集委員長として編集した『関西大学70年史』(昭和32年発行)においては、児島を校祖とせず、創立関係者に留めていることを指摘している。岩崎が児島を校祖と言わなくなったのは、横田健一・薗田香融という編纂者たちが、関西法律学校の創立は、単独の個人発起ではなく、大阪事件を契機に大阪に集まった若い司法官たちの共同発起であること明らかにしたからである。
 薗田は、初代校主となる明治義塾法律学校監事を務めた吉田一士の功績をあげ、法学生徒募集広告に挙げられた6人の講師を紹介する。
 最初に名前が挙がる堀田正忠は大阪事件の首席検事であるが、「ボアソナード先生門人」という肩書である。堀田の他に、この肩書を許されたのは法政大学の創立者の1人森順正だけだったそうである。
 あとの5人には、すべて「法律学士」の肩書がある。法律学士というのは、司法省直轄の法学校卒業生のうち、正則科出身者に限って与えられたという。これは全国で58人しかいない。そのうちの5人が大阪に配置され、関西法律学校の講師陣を構成したのである。 児島は、名誉校員、つまり別の記事では「賛成者」として名を連ねた大阪控訴院長である。「法律学士」の講師陣と、上級機関へ稟議を繰り返していた児島とは、法学の素養で大きな違いがある。
 薗田は、関西法律学校は、司法省法学校の教育理念をつよくうけついでいるのではないかと考証している。薗田は「明治19年1月25日こそ、司法省が法官育成の責務を文部省に完全にゆずり渡した記念すべき日付であります。こうしてわが国近代法学史上に異彩を放った司法省法律学校は名実ともに消滅しました。ボアソナード直伝のフランス自然法学は後続する基盤を失ってしまいました。その廃止の残務に従事した井上と手塚が大阪に着任したとき、同地にたまたま顔を揃えた5人の『法律学士』が吉田一士という、これも挫折した民権派知識人のよびかけに応じて、今はなくなった彼らの母校の教育理念を永久に伝えるべく、関西法律学校という新しい法律学校の創設によろこんで賛成したことは鼻灘必然的なものあったと思う次第です」と述べる。
 
四 児島惟謙を顕彰すること
 児島惟謙は、決して無能ではない。しかし、法律家ではなかった。50歳代で、大審院を退く。法曹の世界にとどまらず、貴族院議員衆議院議員になる。吉田栄司は「帝国議会議員としての児島惟謙」などと気楽に顕彰しているが、児島が、どうして政治の道に歩むのかを、少しくらい考えないといけない。端的にいえば、法律の世界は、自分の世界で無いと自覚したのであろう。吉田にとっては他人事ではないであろう。市川も、そして吉田徳夫にとっても他人事ではないのではないか。本当に児島惟謙の航跡など追求したのか。児島自身が法律の世界では邪魔になりかねない時代になってきていたというべきである。
 上級機関への稟議を重ねていた自分と全く異なる「司法官」が中心の時代となっていたのである。
 関西大学創立の歴史として、児島惟謙を顕彰すればするほど、関西法律学校創設の理念は後景に退き、ますます見えなくなるのである。
 関西大学法学部日本法制史の初代の専任スタッフとして法制史学の画期的な時期を築いた石尾芳久は、先の1992年に刊行された『危機としての大津事件』に「大津事件と児島惟謙」を寄せている。そこでは、児島惟謙を「法律家魂」の持ち主として顕彰している。法律家としての素養の無い「法律家魂」などというものがあるのか。法曹界から去った児島惟謙は、法律家ではない自分を自覚したのであろう。関西法律学校を支えた講師たちは、児島惟謙に、現実の「法律家」を見る機会を与えたことになる。50歳代での児島の政界への転身は、法律家でないことを自覚した児島惟謙の矜持とも捉えることができる。
 今、児島惟謙を、関西法律学校の創始者として顕彰する人々は、児島惟謙ほども、自分が法律家でないことに自覚が無いのに違いない。
 関西法律学校の創設の理念も、日本中世古代史研究者薗田香融ほどにも到底理解できていないのに違いない。自らが法律家でないことを自覚して潔い進退を決した児島惟謙の人柄くらいは認識して欲しいものである。