仲井紱・末代の恥『ほんのいろいろ 関西大学図書館拾遺春秋』
一 仲井紱の本
関大生協『書評』の表紙の裏、1番多くの人の目にとまるところである。その内容で、その雑誌、あるいは冊子の評価は決定される。そこに、田中登が何を書いているか。「娯楽小説の楽しみ」!!??国文の教授だという田中は、これが変だということが自分で分からないのだ。国文の教師として、日本語についての感覚が悪いというのは致命的である。
その田中登に代わって一時登場していたのが渡部晋太郎である。これも凄い!!富永仲基『樂律考』を紛失したことを自慢げに書いている(『書評』№128)。どうして図書館職員として平然としているのか、不思議である。図書館の職員として致命的な欠陥の持ち主である。
その田中登、渡部晋太郎に負けないのが仲井紱である。関屋俊彦という関大文学部教授が、輪をかけた惚けた文を書いている。関屋は「仲井紱氏の姿勢は『司書は本来的に歴史家であるべきだ』と言い放っていらっしゃるところにあろう」という。
関屋は、皮肉を言っているのか、単なるあほうか、どっちなのかと思う。p.52に、仲井が『関大通信』に載せていた文がある。
聖書(The Bible)紀元前15世紀から紀元前2世紀の間に成立したキリスト教の聖典で「旧約聖書(Old Testament)」と「新約聖書(New Testament)」から成り立っていることは周知のことであろう。
とする。新約聖書がイエスと使徒の叙述であるのも周知というほどのものでない当たり前の常識である。みんな内容を知っているからである。そうすると、その聖書が紀元前に成立することなどあり得ないことである。おそらく、「紀元2世紀」を間違えたのだろうが、間違え方がひどい。
そう思うと、蘊蓄ぶって書いていることがみんな怪しい。常識的なことがおかしい。間違いは誰でもするが、ほとんどが、一度、仲井自身が活字にしたものである。それを、今度は本にしているのである。仲井は、「本」について語っているらしいが、これだけで仲井に「本」についての思い入れの程度が分かるというものである。あるいは、そもそも、仲井には、「本」について、あれこれ言う資格など有してはいないというべきなのだろうか。
徳川家康が天下を統一した時、これからは武力ではなく学問で政治を行うと宣言した。「元和堰武」である。家康は林羅山を登用して儒教(朱子学)を幕府の御用学問とし、昌平黌を学問所とする(p.178)。
仲井は、この文を仲井自信が准教授として勤務する『神戸女子大図書館展観目録』に書いているらしい。こんなことを書いていてよくクビにならないことだ。「天下統一」は、普通は関ヶ原の合戦のことを言うのではないか。「学問で政治を行うと宣言」した?「いつ」「どこで」「だれが」「どのように(表現方法)」、林羅山は、僧道春として家康に仕えている。あの忌まわしい方広寺鐘銘事件の主役は(金地院)崇伝ということくらい小学生でも知っている者は知っている。
湯島に孔子廟が造営されたのは5代将軍綱吉のときである。寛政異学の禁は、さらに下ることになる。よくも、かかる出鱈目をぬけぬけと書けたものだ。
仲井は、孫が使用している中学の歴史の教科書でも覗くことくらいしてみるがよい。
二 仲井紱は、書物についての基本的な認識を欠落していることに自覚がない
いちいちチェックしていたら、きりがない。
少し見ただけで、非常識が目に付く。しかし、問題は、書物についての、仲井紱の思いの問題である。それぞれの書物が、それぞれの人々の思想や思いを表現しようとして出来上がったものなのである。それへの思いが、仲井には、全く欠落していることが、この本の到るところに現れているのである。書物のスタイルにしても、絵にしても、仲井には、その人々の気持ちに迫るところが全くない。そんな本を煽てている関屋俊彦などという男の国文学など、程が知れるというものである。
三 仲井紱は、本を弄ぶのを止めることからやり直せ
不勉強で物知らずの元政党の地域官僚だった谷沢永一に、駒として抜擢されたのは桂文珍が有名であるが、その文鎮の劇的登場の前に、関大国文に、谷沢に抜擢され高卒の教授として話題になったのが肥田皓三である。その肥田が『ほんのいろいろ』というタイトルの説明をしている。「ほんの些細なこと」ということから来ているというのである。
もう止めてくれるか、仲井紱。本をつくっている人は、それぞれ己の思想を託しているのだ。嬲るなよ。だいたい、肥田がそうなのと違うか。
そんな奴らに、本が弄ばれていては困るのである。そんな光景を目にするのは、本当に苦痛なのである。
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「関西大学図書館拾遺春秋」などと関大にとっても恥だが、図書館にあることで、仲井紱は、恥を末代に遺すことになる覚悟はできているのか。
さらに気になるのは、仲井紱にならって、田中登までが、「娯楽小説を楽しむ」本を編まないか、恐ろしい恥を曝さないかということである。懸念するところである。