贔屓の引き倒し……「たそがれの品川宿」(8月7日)の【余談】に思う

 一 贔屓の引き倒し
 「tono-taniの日記」という名前など、他所のサイトでお目にかかることは滅多と無い。それが「たそがれの品川宿」(2013/08/07)で内田樹の講演会(2013・8・2)を紹介したあとの【余談】で出て来る。tono-taniの日記が内田をはげしく口激(ママ)しているとある。激怒し、「一方的な怒り爆発」と書いている。最後に、ある種の「錯誤」さえ抱えて行なった事象への経歴詐称疑惑にこだわる、自戒に乏しい論難にどれほどの意味があるのだろうか?と纏めている。
 何のことかと思って、「tono-taniの日記」で検索すると、たそがれの品川宿にあるように、2011年9月のところに、その文があった。結構長い。しかし、あるのは内田ゼミの院生に対する(余計な)心配で終始している。口激(ママ)も、激怒も見当たらない。たしかに「ほなら、どついたろか」とは、趣味が悪い。しかし、内田の言の「(角材について)そんなものでぶたれたって痛くも痒くもない」とは、実物を少しでも見れば言えないことだ。「象徴的」というのは映像や活字だけみていた者に取って象徴でしかなかったわけだ。「どついたろか」というのは、少しは現実をみたら?程度の表現だろう。序でに言っておくと、それまでにも棒でなぐりつけるようなことは無いこともなかっただろうが、大々的にはじめたのは、67年の羽田闘争だった。不用心だった機動隊はそのときやられてしまったのだ。ゲバ棒は、プラカードに仮装していたものだ。敢えて言えば、角材は、三派全学連の象徴的存在であったとも言える。しかし、それは、実力というか「暴力」の象徴になったわけである。結果として象徴的に見えたとしても、現実的な反戦闘争をした学生たちは、「暴力学生」と呼ばれた、また、そのことを受け止めて逆に矜持とした者たちの「象徴」であるのとは、内田の言う「痛くも痒くも無い」象徴的なものとは違うだろう。品川宿は、tono-taniの「一方的な怒り爆発」と書くが、怒り爆発のようには読めない。品川宿が「極めて象徴的なものと言うのは当たっている」と言うのは、悪いけど内田に対する媚びとしか読めない。
 「経歴詐称疑惑」も見当たらない。内田の経歴は、はっきりしている。日比谷を中退して大検で東大に入ったことまで自分で言っている有名なことだ。勤務先として神戸女学院に決まるまでのことまで自分で多く語っているようである。専門的な業績がほぼ無くても、無理して業績をでっちあげたりはしない。そのはっきりした経歴からすれば、東大に入学したときには、東大全共闘は無かったよ、と書いてあるだけである。それで、内田が院生にとくとくと語っているのは、それは内田のつくった仮想全共闘に基づく話しじゃないか、と言っているのに過ぎないようである。というより、オーラル・ヒストリーと言われるものにおける初歩的な問題を言っているだけのようである。
 リサーチする場合、informantは自分に都合の良いことを言う嫌いがあるから気をつけないといけないと、あるテレビ番組をめぐる騒動で問題になっていた。実際に、リサーチする場合、初めてきくことである話でも、だいたい嘘かどうか判るものである。判るだけの準備をしておかなくてはいけない。tono-tani(2011/09/02)を見ると、そのようなことが書いてあるようである。
 実は、インタビューにおいて、内田に全共闘についてのつまらない錯誤があったのではないのか。全共闘を風俗のように認識していたのではないか。だからゲバ棒をへなへなの象徴的なものに過ぎないと「錯誤」してしまったのだろう。要するにファッションなのだ。そして、象徴的というのなら、何が象徴されることになるのか、三派全学連の場合、あえて言えば「暴力」ということになる。それでは、全共闘も場合も暴力だろう。
 「品川宿」が見たtono-taniにも書いてあったと思うが、全共闘というのは、様々なのである。そして、具体的なのである。東大全共闘は、医学部における医者養成制度の問題から起こった。日大全共闘は、学生自治の獲得闘争であった。ある日大全共闘だった人物が「日大闘争というのは、いわば公民権闘争ですよ」と言っていたと聞いて、最初、判らなかった。あの希有の大闘争が公民権闘争?と思ったのである。しかし、日大生にとって、それは切実だったのである。日大闘争のどれほど前のことだろうか、日大で新入生歓迎かなにかで羽仁五郎の講演会があったとき、体育会などが殴り込み、主催者の学生の幾人かは脳波異常などの大けがをしたことが全国紙に載っていたことがあった。しかも、処分されたのは被害者である。講演会などをして混乱を招いたという理由である。運動に火がついたのは、巨額の使途不明金かなにかであった。なぜ、あのような大闘争になったのか、自分の存在しているところでの問題を共有した人たちが共に闘うということで、組織を勝ち得たのである。それは実のある組織だった。その意味では、医者養成システムへの疑問から出発した今井澄たちの東大闘争にも通ずるところはある。今井は、地域医療を担う医者から、政治分野にまで活躍するが、生涯を医療問題に関わった。
 1969年4月、近畿大学は、当時、全国の教育者から非難をあびた中教審答申を出した中教審会長の森戸辰男の講演会を企てた。近畿大学が全国でも希な中教審依りの学校であることのアピールになるだろうし、近大にもわずかに生息する過激派の炙り出しにもなるとなるなど、多目的講演会である。そんなことは十分に承知の十数人の全共闘は、機動隊とその前に陣取る200人はいると思われる体育会系や体育会OB事務職員が待ち構える会場を目指した。声は出たか、足は竦まなかったか。シュプレヒコールは何と言ったか。とにかく無惨なリンチの場と化した。内蔵破裂などの負傷者が逮捕されて入院した。かれらは、もう絶対に学校にはもどれない。行動を起こすと決めたとき戻れないことは覚悟したことは確実である。相当の重傷で何が起こるか判らない状況である。自分の学園に留まれないことを覚悟して、自分の学園に対して何事かをしたいという思いである。自分が存在しているところ、そのものを問題にするところが全共闘に通ずるということは言える。内田ゼミの院生は、もう少しリサーチを続けていれば、とりあえずは、そのような認識を得たかもしれない。
 内田ゼミの院生が、全共闘として闘った人たちに聞きたいと思ったのなら、このような、多くの人たちからもっと聞きまくるべきだった。聞きまくっているうちに、いろんなことが判ってくるだろう、という趣旨のことがtono-taniには書いてあった筈である。抜き差しならない、共有する自分たちの状況が共闘の根拠である。それを現在する自分の課題として、自覚的に生きていくために突き進んだという人もあれば、そうではない判断、対応も当然あった。
 だから「全共闘する」というのは、変なのだ。たしか「何度でも全共闘やったるぞ」のような台詞が品川宿のprofileに載っている作品に出て来る。作品名か、登場人物名でよかったが、刊行されている作品の著者の名でtono-taniに書いてあった。今、あげたようなことからすれば、全共闘は、1人で「するもの」ではないし(だから「1人全共闘」は言葉自体矛盾である)、何度もするものでもできるものでもない。
 内田は、自分が全共闘とは、「ビラを撒いた」ことと言っているように思う。どうも、学生運動全共闘と混濁しているようでもある。そうあほうでも無い内田は、つまらないことを言い過ぎたとも思っているかも知れない。そうだとすると、この件に関しては、そんなに触れたくない筈だ。品川宿が余計なことを言うと気にする人が出てこないとも限らないではないか。贔屓の引き倒しとはそんな意味である。
 ただ、気になるのは、内田が全共闘運動というのは、国民統合運動だ、と言っていたようなことである。内田が撒いたとするビラは「真のファシスト……」とかいうものだったとあったように思う。全く面白くもないつまらない冗談を言うと思っていたが、案外、本気だったのかも知れないと今、思い直した。そうだとしたら、内田について、誤解していたことになる。

 二 たった1つのエピソード……極私的関大全共闘史(3)
 69年の7月、千里山の関大会館を150人ほどの全共闘学生が占拠した。そこからグランドで開かれる集会に登場する予定だった。バリケードを出る前にも注意を含めたミーティングを行った。隊列から絶対に離れないことなど、右翼の拉致・リンチに対する備えと同じく、密集した体制からの攻撃についての確認を行った。社会学部から書記局入りしている副議長が可愛い容貌とおよそ反対のしわがれた低い声で「いいかい、連中、殺していいから」と気合いを入れた。そのつもりで行かないと危ないのである。「三派」とかなんとか言っても、関大ではリンチの対象に過ぎなかったのである。少々のデモでも関大では、応援団や体育会(の多くが、レギュラーになれない落ちこぼれ)の乱入で混乱してしまうのである。書記局の構成員の1人文学部の吹岡の額の傷を、もうほとんど活動は学外に転じていた河田が吹岡と2人で右翼のリンチにあったときに木刀で殴られた痕だと教えてくれたことがある。「殺しまではしないとは思ったけどな…………あのときはひどかったな…」とその流血のリンチを述懐していた。河田は新聞学科だった。そのリンチを構成した者には、のち石原慎太郎とチームを組んで有名になる、日学同のキャップがいた。それが新聞学科だった。そういう状況下での「殺してもよいから」である(関大会館封鎖中にも、関大のことを知らなくて様子を見に来た他大学の学生が、リンチされ顔を腫らして逃げ込んで来たこともある)。
 案の定、関大会館から、20メートルほどで、高い襟の長い学生服の応援団員が襲って来た。全共闘など、ワッと言って逃げるものだと高を括っていたのだろう。ところが、全員がゲバ棒で迎え撃ってきたのである。不測の事態に驚いた、市處(いちしょ)とか言ったその応援団、やにわに懐から、何か出してきた。刀のようなものだった。手製の刀のように見えた。それは、笑いそうなものだったが、「三派」を舐めきっているその応援団は、十分脅しになると考えていたのだろうか、己の劣勢をみて、振りかざして来た。そこを法学部1年生で、68年の右翼に攻撃された際のトラウマに無縁な白井が、水分を吸って少々重くなっていたゲバ棒でどぅ−んと突いた。応援団にはカウンターとなった。応援団はよろめいた。そこを他のゲバ棒が突いた。大きな学生服が横たわってしまった。みんなよってたかって、それこそ息の根を止めてしまおうかとばかりに攻撃した。ゲバ棒が重なってしまったりしていた。みるみる、長ランと呼ばれる、高額の仕立て代をはずんで誂えた学生服がボロボロになっていった。本当にみるみるうちにボロになっていった。学生服の内側に、連中は「關西大學應援團副團長某」とか刺繍を入れている。あれにも随分払っていたと思うのだが、みるみるボロの一部になった。思いも掛けない事態と打撃による朦朧とした頭のまま、応援団は、本能的に横の急な土手をよじ上がり逃げていった。後日、応援団本部などを捜索したとき、本部の黒板に、「市處、全身打撲」とか、その日の被害報告として記されていた。 

 歴史教育者協議会
 内田樹の講演会が歴史教育者協議会の大会で行われ、たそがれの品川宿の管理人も講演会に参加して、その報告を書いていたら、ウチダ先生を「論難する」文が出て来たということなのだろうか。
 ウチダ先生は、數少ないリベラルな発言を躊躇なくできる人として、今日、希な人である。期待するのは当然である。講演会をして、意見を交換するのは大切である。
 ただ、気になるのは、今の小・中・高の社会科の先生方の勉強である。勉強するだけの余裕がない過酷な状態があるのかもしれない。歴史教育協議会というのは、社会科の先生方の集まりのようである。
 兵庫模試という高校入試の模試を塾の生徒が受けて来たことがあった。「インドでは牛は神の化身として敬われ……」という選択肢があって、これは正しいとされていた。ヒンドゥー教の話だから、そんな地域が全く無いとは言えないだろうが、間違いを1つ選ぶ問題で、れっきとした間違いが別にあるのである。ヒンドゥー教には、れっきとした有名な神がいらっしゃるので、そこに牛系の神様は、聞いたことが無い。模試事務局に電話すると、判りましたということであったが、塾へ行くとファックスが届いていた。大手の出版社の教科書のコピーだった。自分でもおかしいと納得したのではなかったのか、と思って、出版社に連絡した。編集の方から丁寧な電話があった。それでは、次年度から訂正されるのですね?と言うと、実は、何年かの使用サイクルの最後の年なので、次からは新しい教科書になると聞いて驚いた。いままで、現場の先生から、何もなかったのですか?と聞くと、「全くありません」ということであった。 授業していて気にならないのかと思う。
 関西の中学校で良く使用されている教科書に、アトムとウランをキャラクターとして全編に使っているのがある。被曝した広島の街をアトムとウランが案内するのには恐れ入る。先生方は、授業で何と仰っているのだろうか。
 歴史の教科書でも、明治初期の士族反乱の箇所がある。薩長土肥藩閥政府に反対した民権運動の脈絡で書いてある。ところが、有名な乱は、佐賀の乱萩の乱、最大で最後のものは西南戦争である。薩・長・肥で、つまり新政府の主力のお膝元がとくに有名なのである。つまり、特権を失ったが、理由があって(多くが無能なので)、新政府でも採用されない連中によるやっかみともとれる、つまりルサンチマンの新政府に対する妨害のようなのだ。民権運動と関連づけられては困る。そこがとても変なのである。教科書では、1877(明治10)年の西南戦争敗北で、民権運動は武力の限界を悟って、言論に転じました、みたいな書き方で、板垣退助らの民撰議院設立建白書のことを書いている。建白書の提出は、1874年、明治7年のことである。西南戦争より3年「前」のことである。ここでも、社会科の先生方が、何かを仰ったと聞いたことは無い。
 多くの生徒が使用する教科書なのである。先生が気が付かないでどうするのか。先生が勉強しないで、どうするのか。
 裁判員制度が2004年に成立して、2009年に施行された。教科書『政治・経済』には、司法権の独立は、裁判官の独立でもある、と憲法第76条③をあげて説明があった筈である。1969年の平賀書簡問題で、司法権の独立、裁判官の独立が問題になったことは、よく知られていると思っていた。
 社会科の先生方から疑問の声があがったとも聞かないし、どのように授業をされているのか想像できない。 
 言いたいのは、自分の持ち場のことをしっかり仕上げていくことからしか無い筈だということである。今日の学校の先生は本当に大変だと思う。しかし、その大変な状況こそが課題だと思う。「この国のかたち」式のことをやってもらっていては困るのである。国家は、帰結なのである、という言い方を聞いたことがあるだろう。国家概念を先行させる思考は拙いとわかってやってほしい。