政治とスポーツ、というより「スポーツと政治と商売」
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政治とスポーツは、かなり古い課題だと思う。古代オリンピック単なる競技会だったわけではなく、神の前の祭典であった。
戦前のオリンピックのクライマックスは、やはり1936年のナチス政権下のベルリン大会ではないか。政権のプロパガンダとして使用され、映像が大きな役割を果たし、その宣伝の可能性が追求された。
このベルリン大会は、聖火リレーなど、その後のオリンピック大会の範となったようだ。たしか、日本選手団は、東京オリンピックのときも、例のナチス式の敬礼をしていたのではないかと思う。
戦後のオリンピックの盛況は、アジア・アフリカの新興国の登場抜きには考えられない。1964年の東京オリンピックは、日本のOECD加盟や新幹線の開業を重ねた象徴的な年だった。確か、ソ連の人工衛星の打ち上げもあって、このときは、中国との正式の国交はまだ開かれていなかったけれども、東西の力関係もやゝ東が優勢かとも思えたくらいだった。
市川崑による記録映画『東京オリンピック』は、人間を描いた名作だったと思う。また、新しい技術を駆使し、ヘイズが優勝する最速の競技100m競争が高速撮影によるもので、その筋肉の動きまで写し出したのは印象的であった。
その映画の冒頭は、準備のための東京の町の工事現場だった。オリンピックの担当にもあたっていた閣僚の河野一郎(太郎の祖父)がクレームをつけた。
競技施設は丹下健三によるものだった。いろいろ言う人はいたが丹下健三は確かに国際的に通用する建築デザイナーだった。
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1988年のソウル・オリンピックのときの金壽根設計の施設は印象的であり、2008年の北京オリンピック開会式は中国の映像文化が当時筍だったときの演出だった感がある。
これなどは、韓国の近代建築の一つのステップとなったり、中国映像文化の発露であったりして悪いことではなかったと思う。
気になるのは、スポーツが政治に利用されるのがあからさまな局面である。ベルリン大会の負の面の継承が目に付くからである。パラリンピックで活躍している佐藤真海選手、障害者スポーツによって、自分も人生を取り戻した感激は多くの人と共有したいところであろう。その気持ちが誘致のプレゼンで人々の共感を得たことだと思う。
その純粋な気持ちから来る活動をより効果的であるために、政治の力が必要であると実感されているのだろうが、政治家は、その気持ちを利用するのが、自分たちの仕事であると思っているようである。佐藤選手が安倍晋三の華のようにいることがある。北朝鮮の金王朝の華のような女性と重なって見えてしますのである。
また、オリンピックを誘致する根拠に、経済効果をあげることが多い。これこそが誘致の説得力ある根拠だと考えているふしがある。しかし、これも政治に劣らず、本来のスポーツの姿を歪めている可能性がある。それが、学校教育にまで入っている。
もともと、スポーツは、軍事訓練のためのものでなかったら、楽しんだり、体の発達や活動を活発にさせるものである。それ自体で「儲ける」というのは、少し怖い話である。もっとも高い身体能力、競技能力を発揮するのを見るのは、感動的な場合はある。
漱石の『三四郎』に運動会の場面が出て来る。その場面は、落語のようで笑ってしまう。確かに上等の落語のリズムと皮肉がある。しかし、その皮肉は現代にも通じる。
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去年、大阪市立桜宮高校のバスケットボール部のキャプテンの生徒が自殺した。それだけでは無いのだが、自殺の原因が体罰だとされた。実際に体罰もあって、体罰の痕が歴然としていたと週刊誌などにい書いてある。元顧問教師は暴行で起訴された。
ある週刊誌が、生徒がキャプテンであることに固執したのは、早稲田進学ということがあるからだと書いていた。実際に殴られることだけで、死んでしまおうと思うことは想像しにくい。たしかに無抵抗の生徒を殴りつけるのは、見ていても気持ちが悪いものである。 しかし、問題を「体罰の問題」に閉じ込めてしまったのは、まずかった。あるいは「体罰」の問題にしかできない教育界の貧相さがあると思う。
クラブ活動のチームのキャプテンを務めることが、早稲田への進学にとって大きな意味をもっていて、その思いの実現が困難な状態であることが現実化してきた場合、絶望的な気持ちになることは想像しやすい。しかし、それは一面では想像しやすいが、運動部のクラブ活動が早稲田大学進学に繋がると当然に考えるところに、奇妙な感じがしないことも無い。よく知らないままで、想像だけで考えるのは問題だが、「体罰の問題」にする方がはるかに分かり難い。斎藤佑樹は、甲子園で優勝して早稲田大で進学したが、高校は早実である。早実中学は難関校である。クラブ活動での活躍が早稲田大学で勉強することとどのように繋がるのか、親も気にならなかったのだろうか。学校も親も子供の人生について、どの程度、配慮できていたのかと不思議で、考えようによれば、「体罰を非難されている元教師」だけが、そんな甘いことではあかんぞ、と叱咤する(やきをいれる)ことをしていたのかも知れない。
戦後、新制高校の出発にあたってできる限り、一般的は知識を見つけさせようという大方針があった筈である。普通科中心の共学中心の体制ができた筈である。できるだけバランスのとれた人格を形成しようと考えた筈である。そのためのクラブ活動も見直された筈である。桜宮高校の生徒は体育科だったらしい。体育科の活躍が桜宮高校の雰囲気を変えたという報道もある。しかし、教科の体育というより、クラブ活動で行われていたことを、体育科ということで高校教育の中心に置くというのは如何なものだろうか。
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正月3日の夜、たまたまテレビを点けたら(NHK総合テレビ2014年1月3日午後11時40分から翌午前0時39分まで)、「大人のクイズ」とかいうNHK解説委員が問題を出して解説する番組をしていた。番組全体については、次のような紹介があった。
加藤浩次さんとNHK解説委員の丁々発止の議論を通して、日本の今に迫る大人ドリル。今回は新春のスペシャルとして時間を拡大して放送する。新しい年を迎える日本のあり方を考える上での重要キーワードをもとにしたクイズに多彩なゲストが回答。それぞれの項目に精通した解説委員がさらに掘り下げた解説を加え、日本が目指すべき新しい国の形を展望していく。果たして優勝するゲストは?そして解説委員同士の議論も白熱!新年に家族そろって楽しめる番組をお届けする。
この番組のなかで「スポーツ省」をつくることを政府が考えていることが知った。オリンピックでも、いろんな役所がばらばらで、うまくできないというのである。厚生省の仕事だったり文科省の仕事だったりの縦割りになっていて効率が悪いというのである。
中には、まともな解説委員もいる(まともな解説委員が偶にいるようでは困るのだが)。その解説委員がいろんな要素があるのだから、それは大事にして欲しいと言った。
すると、スポーツ省一本にすべきだと思うと、威勢のよい単細胞解説委員が、まともな解説委員を圧倒した。「学校のクラブ活動など廃止すればいいんだ」と言っていた。この単細胞解説委員は、クラブ活動が教育における意味を全く理解しない。スポーツは厚生労働行政でどれほど重要な意味をもつのか理解しえない。そのような行政の一つの表れが、オリンピック競技にどのようなかたちでかかわるかということになるので、オリンピックという政治イベントを第一に考えるスポーツ省など、全く本末転倒だと、NHKの解説委員なら解説しなければいけないのである。
桜宮高校の痛ましい事件を、このNHK解説委員は受け止めていない。また、その分、傲慢は語り方をする。
今の日本の状況を象徴したような、解説委員の姿であった。