2月1日(2014)金時鐘氏講演会(関大校友連絡会主催)於・大阪市西区民センター

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 関大校友連絡会という、関大の団塊世代中心の同窓会のようなものがあって、そこで、そのときどきに、時代と社会に切り込んだ言葉を交わして、交流を継続していきたいと三野・石田といった世話人が考えていると聞いていた。元大阪文学学校理事長も勤められた金時鐘氏の講演で8回目の市民講座ということである。1回目が2008年だから、1年に1度か2度の開催である。
 この催し物に出たのは、今回が初めてだった。今まで他の行事と重なったり、終わった後から聞いたりしていた。
 金時鐘氏は、詩人で、1986年に『「在日」のはざまで』で第40回毎日出版文化賞受賞されている表現者である。1945年8月15日の「解放」(日本の敗戦)を迎えたとき、光州の教員養成の中学在学中の17歳だったそうである。済州島に帰って、南北分断に反対する戦いに参加し、李承晩(イ・スンマン)政権によって多数の島民が虐殺される中、49年6月、身を隠すように船で日本に渡ってこられたそうである。小野十三郎『詩論』に会い、以後、多くの日本語による作品を書かれている。

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 お話の趣旨は、ご自身の少年時代とともにあり、自らを育んだ北原白秋や野口雨情などの叙情詩をみつめ、「情感は批評をもたない」ということであった。これは、具体的なもの、真実を持たない、日本の叙情性の表現だというわけである。自己陶酔のレトリックだと仰る。真なるものの表現「具体物としての実像」になっていないと仰るのである。東日本大震災のあと合唱される「花は咲く」あるいは、「絆」という言葉がそれだというわけである。そこに現代詩の衰退の問題があり、詩の成立の困難な問題があるとということであった。
 金時鐘氏は、教員養成の中学卒業直前の17歳まで日本語で成長された。人間形成を日本語でなされた。「解放」後、民族の言葉と文字を修得された。朝鮮語の音は周辺から聞こえていたそうで、朝鮮語を表記するハングルを教えてくれる人にも恵まれ必死になって短期間で修得されたそうである。
 金氏は、1人息子であった。それで金氏のご両親は、氏を生きながらえさせるため、つとめて、朝鮮人としてでなく日本人としての育てられたそうで、利発な金氏は、親の期待に応え、日本語にも日本的情感にも馴染んでいかれたようである。多感な時期を、北原白秋などの叙情詩で育った。ただ、お父上は、日本語を理解されるのにも係わらす、使用するのを拒まれていたそうである(「クレメンタインの歌」)。
 それだけに、「解放」は衝撃だったのである。それから、朝鮮という自らの民族の自覚と自らを表現する国のためほぼ4年戦い、日本へ渡られた。
 氏は日本で、日本語による表現者になった。自らを形成した叙情的な唱歌や歌謡と自覚的に対決してきた。

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 ソウル・オリンピックの開催が1988年だから、1987年より前のことになる。1983年に刊行された関川夏央の『ソウルの練習問題』がまだ良く売れていたころだと思う。私は、たまたま、田植えをしている韓国の農村風景をテレビで見た。とても懐かしく思った。機械化された日本では見られなくなっていたからだ。そんな舗装されていない韓国の農村の道を二輪車で走りたいと思った。しかし、そこまでの余裕は無く、せめてと関川のお題に従って関釜フェリーに乗った。釜山に上陸してからソウルまでは、韓国が誇るセマウル号に乗りたいと思った。上陸手続きに手間取って、やっと着いた釜山駅では、出発間際のセマウル号に早く乗れとせかされた。日本でのように切符は車内で買おうと思った。快調に走りはじめたセマウル号のなかで、藤木悠そっくりの車掌にソウルまでの切符を欲しいと言った。藤木悠そっくりは、困ったような顔をして食堂車へ連れていってくれた。お墓参りに帰郷する在日の夫婦に車掌が通訳を頼んだ。どうやら、乗車前に切符を買っていなかったら鉄道法違反になるということだった。しかし、事情が分からなかった外国人のことだから、次の停車駅の東大邱で、普通の特急の切符を買って乗車することができるように計らうがどうか、と言ってくれた。規定どおり、2倍の運賃を払ってソウルまで行くことも選択できると言ってくれた。それでは、ご好意に甘えてと、東大邱で下車した。車掌が駅員に言っておいてくれた。東大邱の駅員は人のよさそうな年配のおじさんだった。「ケイジョウまで行くのか」と日本語で話し掛けられた。一瞬、返事することを躊躇した。「ケイジョウ(京城)」など言って大丈夫なのかいと思った。「お礼はタバコ一箱ということになっている」となまりの全く無い日本で「覚えておくように」と教えてくれた。韓国では、日本語や漢字に対する反発が強いと聞いていたので、どこかで身構えていたのだろうか、この数分の出会いは不思議だった。駅員のおじさんは「京城まで行くのか?」と言うとき嬉しそうでさえあった。そりゃあ、少年期にはずっと使っていた言葉だからなぁ、と思った。だからこそ、思いはいろいろなのだろうと思った。

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 金時鐘氏は、朝鮮人として日本語で詩を書いている。日本語で表現している。朝鮮語が出来ないわけではない。金芝河の詩は、翻訳が困難だという。金芝河の詩は高度の方法としての風刺があるという。金芝河がその風刺を駆使できるのは、民衆が継承してきた短形の抒情民謡とか、労働歌謡、長形の叙事民謡、叙事巫歌等を風刺精神の宝庫として受けとめているからだそうである。私たちは、金芝河の詩には、日本語訳でしか接することができない。

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 金時鐘氏は、自然を歌い他者を意識せず自己陶酔に誘う日本の叙情詩を、自らを育てたものであるだけに、厳しく見つめ直そうとされているようでもある。五七調で叙される短歌俳句の隆盛を現代詩の衰退とともに語られる。
 日本の学校でも国語の教室では、論理的表現を必要とされるものよりも、フレーズどころか、単語を投げかけるだけで成立した気分にされる俳句の方が手軽に課題にしやすい。
 「感じたか、感じなかったか」にされる。論理の問題は無い。言葉の感覚を磨いているつもりが、どんどん日本語を貧しくして行っている。日本の国語の教室が日本語をだめにしているところさえある。
 このような現実に相応する金時鐘氏の趣旨はよく分かる。実際に進行している現実である。
 ただ、日本の古代歌謡は七五調ではなかったのである。古事記に出て来る古代歌謡は、戦いの歌で踊りながら歌うもので七五調ではない。中国文化が洗練された五言七音の詩として自然を叙することをもたらした側面がある。そのことは、西郷信綱吉本隆明が書いている。
 また、少し気になるのは「恨」の意味である。これは「怨」とちがうのか同じなのか、また「恨み」こそ醜のきわまったものだとも言う。民衆はもっとも醜怪な形でしかない、というのは、反語的な言い方のようであるが、今はよく分からない。