関西大学生協『書評』第138号(2012・秋)……どうして、「追想小山仁示先生」が継ぎ足し? 

(1)
 年末の関西大学図書館で、積まれたままになっている関大生協『書評』第138号が目に付いた。相変わらず、関大文学部教授とかいう田中登が、「娯楽文学の楽しみ」を、陳腐なままで綴っている。阿久悠のことなど、多くの新聞などでみることができた評論家たちの追悼文より遼に低レベルの文章である。
 田中登など、本当に文学部(国文)の教授なのかと思う。関西大学の学生の姿を想像するのが怖い。
(仲井徳の羞恥心の無さには、言うことが無いほどなので、今回は、邪魔くさい!!仲井徳の文章の拙劣なことは、不快である。環境問題だと思い知れ!)

(2)
 もう、放っておくべきかと思ったが、小山仁示先生のことが載っているのに「気付く」ような体裁で入っているので、一言しておくべきだと思った。
 12月になって、第2次安倍内閣が発足した。その前から、橋下徹たちの動きが活発だった。「維新」などといえば、小山先生にとっては、昭和「維新」でしかないだろう。あるいは、朴正煕の「維新」体制だろう。
 そういう状況下で小山先生は亡くなられたのである。小山先生の思いとは裏腹の状況が急ピッチに進行していた。民主党政権でさえ脱原発依存を掲げざるを得なかったところへ、安部は、原発推進をむしろ、自らの政策の要としている。

(3)
 『書評』編集者は、『書評』138号を見て、小山先生の遺志を汲みえていると思うか。
 『書評』138号は、このような時代と対峙しえていると思うか。
 おそらく、ではなく、確かに編集者には、もう知的能力が無いのだろう。それでは、その編集者を任命している者の責任が問われることになる。その知的能力のないものを任命している者の能力も問題であるということである。期待しうるものが何もない暗い年末になった。