荒岱介と政治・思想 関大全共闘(1)


 荒岱介が亡くなって、3ヶ月がたった。荒の訃報記事などでは、「共産同の(元)議長」、とか「新左翼のイデオローグ」とあった。共産同というよりは、荒グループ ― といってもブント系では一番存在感があったが、 ―を率いていただけであるし、「新左翼のイデオローグ」などという言い方は、「新左翼」を、貶めるにことにしかならない。
 荒は、早稲田へ進学したときから文学者志望だったようだが、法曹志望だった神津ほども、これと言ったものを書き遺してはいない。こんなイデオローグはいない。
 当方、荒のことは、随分と意識の外だったが、あるとき荒が『ハイデガー解釈』(社会評論社、1996年)を出したとか、マルクス主義をやめて、環境運動と言っているという情報が入ってきた。実際には、『左翼思想のパラダイム・チェンジ』(実践社、1995年)の出版の方が、『ハイデッガー解釈』出版より先だったのだが。
 民族派の誰かが、荒は、ソ連が崩壊して環境運動に「転向」したと失礼な間違いを書いていた。というのは、廣松渉に師事して、『マルクス・ラジカリズムの復興』(御茶の水書房、1993年)を出したあと、廣松は1994年5月に亡くなった。その後の「パラダイム・チェンジ」である。
 それまでに、自身に撞着することがあったとしても、マルクス学上での師を無くした途端に、たちまちパラダイム・チェンジをした。こんな「イデオローグ」がおるか。


 荒の一番の自慢は、東大安田講堂の最終攻防戦でブント政治局の意向を無視し、社学同委員長として守備隊長米田隆介やこれもまた明治大社学同の上原敦男などを擁して戦ったことである。これが、荒の偉いところだと書いている者がいる。
 荒は、この安田攻防戦を、安保全学連の国会構内突入と同視したわけでもあるまい。安保全学連の国会構内突入は、政治闘争だったけど、安田講堂攻防は、社学同というよりは、東大全共闘の最後の闘いだったわけだ。確かに、戦うところには、いつも社学同が居ます、戦うものを支援します、というのは良い。その闘争は、その学校独自の問題だとして痛い目にあったのが、1966-7年の明治大学費闘争のときの社学同だった。そのことを、荒も書いている。
 東大安田講堂の攻防では、党派としては、社学同が一番多くの逮捕者を出した。荒は「安田講堂の攻防はテレビで全国に中継されたが、社学同のディスプレイが映しださるたびに、看板を出しといてよかったよなと思ったものだ。」と書いている。社学同決死隊の中心は、66-7年明大学費闘争での恥辱をはらうべく決起した明治の米田隆介や上原敦男だった、社学同の旗が翻っているのは、戦う社学同の存在を顕示いているようでよい。しかし、これは、東大全共闘の闘いで、社学同は、いわば義によって参じているのである。それが、政治路線の違いだとか、赤軍派出現の理由だとかは論外の沙汰だ。
 落城寸前の安田講堂から、「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します。」と感激的なメッセージを送ったとされる今井澄は、ML派の人間としてではなく、東大全共闘の一員ですらなく、東大全共闘の代表的メンバーだった。東大闘争は、日本のトップ知識人の運動、闘争だった。だから、他の大学・高校と共通するところもあるが、異なるところもあった。今井は、獄中で試験をうけたことでも週刊誌の記事になった。医者資格もとり、長野県の地域医療にもつくし、鎌田實に後を託す諏訪中央病院もたてなおし、主に厚生を手がける政治家として活躍した(2002年9月没)。
 確かに、当時の大学での過激な闘争スタイルは、67年10月8日の羽田の全学連による反戦運動の影響は無視できず、国際的にも、中国文化革命やフランス五月革命で提起された問題と共鳴していた。
 政治党派が、意見やアドバイスをしたり、バックアップするのは良い。しかし、安田講堂で、徹底抗戦をすると決めたのは、荒でも社学同でもない、東大全共闘執行部だ。もちろん、今井一人で決めたわけでもなく、執行部が、外部の意見を聞かなかったというわけでもない。
 荒が、東大安田講堂決戦での、自分の行動の意義を言えば言うほど、東大全共闘が、当時提起し、共有していたと思っていた問題が、全く見えなくなったというより消えていった。
 東大闘争は、東大全共闘が、今井が代表だったように東大医学部学生を中心とした医師養成制度に関する問題から出発していた。そうみると、日本のトップエリートの問題だ、東大闘争として、より普遍的な観点を見い出そうとして、知識人の問題が提起された。68-9年の東大闘争が、違って見えた象徴は、助手共闘なる、いわば大学スタッフが、闘争する側に加わったことだ。生活も知識もある大学スタッフが、大学で闘争することの意義を問い質すことは、学生運動・社会運動・政治運動にとって新しい様相だった。一方では、戸惑いが生まれ、一方では、新しいものに対する期待も生まれた。今から考えれば、高度経済成長のもとで、社会にも大学に自らを見直す余裕が出来たようにも思える。でも、がむしゃらな戦後復興、高度経済成長期の一休みではなく、本当は出発点だった。
 「戦争」「科学」「開発」「医療」などと、それに係わる自らを問う出発点だった。今井や山本は、それなりに、自らが出した問題に人生をかけて向き合っていったようだ。


 東大闘争と日大闘争は違う、最強の中大全中闘ともまた違うと思う。今になって、自分は、神津陽に随分と遅れているなあ、と思った。神津が『極私的全共闘史 中大1965-68』(彩流社、2007年)という著書を刊行しているのは、そういうこと、つまり、「全共闘」と一絡げに言われることからの極端的表現なのだろう。これから、その本をみにいこうと思う。つまり、まだ見ていない。
 日大全共闘の学生は、その点、東大全共闘の助手より、荒より、遙かに見えていたようだ。自分たちのやっているのは、東大闘争とは全く別だよ、言ってみれが、公民権闘争なんだ、というのである。その言い方は、秋田明大の迫力、田村敏の流麗な文、日大全共闘の強さ、不屈さなど、それまでの学園闘争から抜き出たものを感じていた私には、違和感があった。つまり、日大全共闘の方が、いろんな意味で圧倒的にラジカルだという印象があるのに、公民権運動だなんて、と思った。しかし、公民権運動だから、ラジカルなのかも知れないと、今思う。


 すが(絓)秀実『1968年』(ちくま新書)も、知識人エリートによる学生運動からの変化を書いていたわけで、それなりに頑張って、時代に挑んでいたのかと、今にして思う。
 ただ、個々の記述が、本人が実際にどれほど、痛い目にあっていたとしても、あまりにも、現場から外れた知識人の表現のように、私には思えたのだ。
 

 荒につけられた「新左翼のイデオローグ」ということについての違和感を言ってみた。荒を「イデオローグ」と評したのは、やはり、あれだけのグループを率いた個人の器量を言うのだろうし、その言葉が、誰かが言っているように衒学的なことにもよるのだろう。
 『SENKI』№1144(2004/5/15)には、廣松渉のどうしたのかと思われる文を土台に、「日中を軸とした世界の再構築」なる趣旨の奇妙な文が載っている。
 この文には、廣松の昭和史についての問題もあるので、それは、その問題として別にすることにして、廣松ネタの、この文の主を「新左翼のイデオローグ」とされたらたまらないなあ、ということである。ありふれた、しかし珍妙な言い方であるが、せいぜい教祖さまだろう。あるいは、教祖さまは、廣松で、荒は、廣松さまのお筆先を読み上げる預言者なのかも知れない。
 この教祖様たちから、自分たちの時代を、少しでも救うことが、一つの課題かとも思う。 関大全共闘(1)としながら、関大には、一言も言及できなかった。それでは、始めようとする機縁に終始した。