「〈たそがれの品川宿〉【余談】について」追加……内田樹は拙い。

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 〈たそがれの品川宿〉が【余談】であれ、「tono-taniの日記」を紹介してくれた。ただ、ちょっと情けない紹介だった。妙な気取りもみてとれて、気恥ずかしかった。ただ、〈品川宿〉があまりにもロー・ブローなので堪らなかった。
 先日、〈品川宿〉に促されたような格好で、2011年9月の「tono-tani」を一瞥したときは、品川宿が言うような非難も論難も何も見当たらないと思っただけだった。
 改めて確認すると、「tono-tani」は、院生の内田へのインタビュー記事をみて書いているようである。9月2日にアップされた文は、少々長い。当方もあまり読んではいなかったから、〈品川宿〉をあまり責めることもできないが、それでも〈品川宿〉は、ほとんど読めなかったのかも知れない。
 読んでいれば、先だっても触れたことであるが、内田が全共闘を国民統合運動だとしていることが気になった筈である。
 2011年9月2日の「tono-tani」を見て判ったことだが、確かに内田は〈嘘〉が多い。〈品川宿〉がいう経歴詐称とかそんなことではない。例えば、内田は、吉本隆明の著作を高校時代からリアル・タイムでフォローしてきたの類である。
 これは吉本をどうみるかということも関係するが、吉本は、「転向」という問題おいて、画期的な仕事をしたことで、自他共にみとめられるが、今なお、評価が高いのは、マチウ書試論である。これは、1954年の作品である。1950年生まれの内田にとっては満4歳になるかならないかである。吉本が学生によく読まれたのは、安保闘争のあと1962年に編集出版された『擬制の終焉』である。内田は、まだ小学生の筈である。吉本は『試行』で「言語にとって美とは何か」を連載していて、勁草書房から2冊本で出版したのが1965年で、内田は中学生である。『共同幻想論』は『文芸』で何回か連載していて、書籍として出版したのは、1968年になる。そのころが、内田が高校生だったころであろう。内田がリアルタイムで吉本の著作を読んでいたというのは、このことを言うのかとも思う。
 そうであるなら、内田の言うことも、あながち〈嘘〉でもないのかとも思う。しかし、吉本隆明共同幻想論』は、読み物として読むのは勝手だが、古事記の世界と柳田国男遠野物語を無理に重ねたものである。吉本『共同幻想論』の「禁制論」で次のように述べる。

わたしたちの心の風土で、禁制がうみだされる条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちでもかんがえていることである。この条件は共同的な幻想についてもかわらない。共同的な幻想もまた入眠と同じように、現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。そしてこの状態のほんとうの生み手は、貧弱な共同社会そのものである。

 これは、日本の近世農村を念頭におけば、つまり、古代まで連なる社会ではなく、いろんな条件を設定すれば、かなり判りやすいのである。しかし、このような閉ざされた社会は有り得ない。近世農村を念頭におけば判りやすいといったのは、そのような〈閉鎖〉の構造を考えやすい条件があるのである。本当は閉鎖されてはいない。吉本は、このような閉鎖された〈共同体〉は古代に起源をもつと誤解した。この『共同幻想論』は、失敗作でもあった。多くの条件を加え無ければ読めないのである。
 だから、さきほど〈嘘〉と言ったが、正確ではない。内田は、失敗作の作者こそが吉本だと思っているのである。間違えているのである。『共同幻想論』も見方を変えれば、面白くないことも無い。しかし、古代史家も民俗学者も説得できないだろう。以前の吉本が書いたもの、例えば『丸山真男論』は、多くの質の高い読者を獲得していたのである。
 内田には、〈嘘〉とほぼ同程度の拙い間違いが多いということである。
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 さて、2011年9月11日「tono-taniの日記」に次のような内田の言説の引用がある。

新左翼学生運動というのは、幕末の「攘夷」運動の3度目のアヴァターなのだ。
 そのことを政治史家たちが見落としているのはいささか私には腑に落ちぬことである。

 攘夷運動からは、内田のいう国民国家など出来はしないことを、内田は判らないようである。1865年には、薩摩からイギリスに19人の留学生が派遣されている。1867年パリの万博には、幕府とは別に薩摩から出品していたことも知って言っているのだろうか。
 確かに高校日本史教科書、まだ少し拙い。薩英戦争で、薩摩は攘夷が不可能なことを知った、などと書いている。萩原延寿 『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』でも少しみれば、そんなことは、おとぎ話だとすぐに判る。薩英戦争の理由は、生麦事件であるが、生麦事件というのは、攘夷行動ではない。流石に最近の多くの教科書ではこの事件を攘夷行動とする記述は姿を消しては来ている。イギリス商人たちは、再三の忠告を無視して、久光の行列を妨害したので、排除されたのである。そのことは、イギリス側も判っている筈である。イギリスからも注意がでていたことだったのである。
 さて、イギリス艦隊の攻撃で、鹿児島は火の海になるが、薩摩の攻撃で、(イギリス艦の自爆もあったともあるが)旗艦ユーライアラスの艦長・副長も戦死するという結果をみた。先の萩原の著書のよれば、鹿児島は火の海になりながら、薩摩は戦勝気分で、イギリス軍は沈痛な気分に陥った状態が叙述されている。
 このとき、イギリスは、薩摩の交渉に出て来る人物に、幕府の人間とは全くことなる人間としての手応えを感じたとある。以後、イギリスの薩摩への肩入れがはじまる。
 内田の「攘夷」運動のアヴァターなどというトンチンカンはどこから来るのか。自分で勉強して考えて、書かないからである。自分で書いていれば、変なことに気が付く筈なのだが、適当に喋ったり聞いたりばかりしているから、変なことに気が付かないのであろう。攘夷運動のアヴァターだなんて、橋下徹たちの「維新」と五十歩百歩でしょう。

野中広務は責任を取れ!

一 野中が公明党を隷属させた結果、「戦争の惨禍」への道が見えてきはしないか。
 野中広務は、公明党政教分離で虐めていたら、ころっとなびいて来たと語っている。それまでは、少しは、自民党に対して、批判勢力だった。
 1969年の夏には、白いヘルメットを被り、安保反対のデモの先頭に立つ池田大作の写真がたしかに創価学会系の新聞に載っていた。
 ところが、当時よりもはるかに勢力を弱めた自民党野中広務の迫力に屈した公明党は、自民党の働き犬になってしまった。
 自民党が、分裂などで、本当に勢力が落ちていたころ、地域活動や数で自民党を支えてのは、公明党創価学会だった。おかげで、地域を荒廃させる悪法がどんどん成立し施行されていった。
 公明党は、国潰しのための自民党の番犬と荷車の牛の役割を果たしていった。
 野中に政教分離と脅されていたのだが、気が付くと、小泉や安部をはじめ、靖國へやすやすと参っていたのは自民党の連中だった。戦死者は、国の被害者だ。しかし、多くの欲に駆られた人々に煽られた結果でもある。アジアの人は、いわば、強盗に襲われた被害者である。
 しかし、国家予算の6-7割を軍事費で占めている状態で戦争をはじめた異常な感覚の政治家、軍人は、常軌を逸した意識の持ち主だということでは責任を免れない。彼らは、被害者では無い。明らかに国賊、人民の敵である。最終的な訴追は免れたとはいえ、開戦時の東条内閣で主要な役割を果たした岸信介は、何処から考えても加害者で、国賊だ。
 少しまともな、政治家、軍人は、軍縮条約や不戦条約に命をかけていた。国民や国を崩壊から救うためである。
 野中広務は、そんなことは十分に知っている筈である。何重にも不合理で不当な軍隊のなかから生還した野中は、自分が、あまりにも、絶対に行ってはならない方向に政治が進んでいることに、主要な力を貸してしまったことを悔やんでいると思う。

二 野中はどうして、君が代、日の丸を法制化したのか。
 野中広務は、日の丸の旗のもと、君が代で、生死の境を彷徨い、かろうじて生還したのだろう。そんな旗を学校で掲げることなど、教員としては、躊躇すると思わないのか。躊躇するのが正常と思わないのか。なぜ、板挟みで悩む人が出て来るかというと、国などが強制するからである。良心と国などの強制との板挟みを、悲劇と考えた野中は、法制化すると、板挟みなど無くなると考えたと言っていた。法制化することで、良心を圧倒できると考えたのか。
 野中広務とはそんなにあほうだったのか。
 今、安倍晋三などという首相などに絶対になってはいけない粗放な頭の持ち主の亡国の徒が、「愛国」などと言っている。橋下徹という、ちんけなファシストが、教育者として全く素養のない「お友達」を校長(現教育長)に口元チェックさせる事態が起こっている。
 このような事態のもとはといえば、野中広務だ。尤も、こんな恥ずかしいことを提案して、しかもそれを誰も停められずにやってしまうようなことが起こるとは、野中広務も想像は出来なかったと思う。
 兎に角、橋下徹によって、落ち目の大阪も大阪の教育の劣化はとめどが無くなった。
 きちんと批判できない朝日や毎日(特に朝日のおもねりが悲惨)も酷い。
 しかし、原因をつくった野中広務は、しっかりと責任をとってもらわないといけない。橋本龍太郎の無責任ぶりを笑い話にして、自分の政治家としての責任をはっきりさせないのはいけない。
 

森雅子は安倍晋三の日本破壊の共犯者として、心中するつもりか?

一 怖いのは、知能の低い政治家
 安倍晋三が知能が高く無いのは、嘘をついても平然としていることで判る。福島の原発がコントロールされているというのは、客観的にみれば、明らかに嘘だが、本人(安部)には、全くその自覚は無い。コントロールされていると思っていたのだろう。よく判らないのは、すぐに、凄い装備で視察に行っていることである。コントロール下には無いことを、世界中にアピールするために行っているのだが、判らないのだろう。
 そこで、特定秘密保護法案である。同じ類の法案は今までにもあったようだが、安部のときならこそ、という印象である。かかる法案を是が非でもという理由の1つは、安部に政治家としての本当の自信も能力もないことである。
 能力も自信も無い劣等政治家が、だからこそ秘密法案にやっきになっている恐ろしい光景である。河野太郎も何をしとるのかと思う。何も言えないのなら政治家になっている意味無いではないか。太郎もあほうだったのか?

二 森雅子の揺れ
 毎日新聞(2013年11月30日)の第一面に

森氏迷走 記者と接触規範「要」「不要」

とあった。森雅子特定秘密法案担当相の発言がぶれているという報道が続いている。
 森雅子は、野党のつっこみに堪えられないあほうの印象をうけてしまう。しかし、この出鱈目な法案の担当相としては、森雅子以外に考えられなかったのだろう。まともな官僚がつくったとは到底思えない法案で、森自体が、提案趣旨をなっとくもしていないし、みとおしも無いのだろう。提案趣旨も納得しないし、法案の構成そのものも自身が納得していないのが答弁に出るとしか考えられない。
 自民党所属の政治家としては、矢面にたって、やがて、数で結着させる。それまで攻勢をくいとめることが、自分の政治家としての仕事だと考えているのであれば、直ちに進退を決していただきたい。日々、日本は毀されて行っている。森雅子は、その日本を滅ぼすことに一役、どころではない、重要な役回りをしていることの自覚はあるのだろうか。
 森雅子の支持者は、そんな役割を果たすことを望んでいるのだろうか。
 選挙区の人々は、森はせいぜい、育児や、母親の課題のことで、活躍することを期待していたのに違いない。亡国法案を国防と勘違いしたわけでもないだろうが、森雅子が、もし政治家として仕事をするつもりなら、今は、肝心なとき、絶好の機会である。
 亡国の徒安倍晋三の露払いをしているようでは、政治家森雅子の未来はない。 

特定秘密保護法案等、平気で提出する内閣の危機的状況

一 ちょっと気持ち悪い、首相、閣僚の発言……内閣は危機的状況、危機管理どころではない。
 安倍晋三は、オリンピック招致のためのスピーチで、1964年の東京オリンピックのときの歌を覚えているといって、全く聞き慣れない歌もどきを聞かせた。多くの人が無視し、多くの人が失笑した。試みに、おそらく、このことを言っているのだろうという当時の歌が流された。しかし、言葉は似ているようだが、同じ歌とは到底思えなかった。
 教え込まれて、レッスンをうけて歌ったのだろうが、似ても似つかないものなのである。 つまり、いまだにメロディーが浮かぶというのは、全くの嘘である。嘘をつくことに何の躊躇いも無い男である。1995年のときのオウム真理教の幹部、嘘つき上祐史浩を想起する。さらに判ることは、教えこまれ、レッスンをうけても様にならない出来の悪い男だということである。これが、日本の総理大臣である。
 オリンピック招致のために、福島第1原発は、アンダー・コントロールとだと平気で言った。現実の事態など自分で認識できず、言われたことを言うのだろう、平気で嘘を付く。東電の社員が、とてもコントロールされている状態ではない、と言ったら、文部科学大臣ともあろう者が、首相の発言に違うとは何事かと激怒した。
 おかしな文部科学大臣だと思っていたら、カルト学者として著名な高橋史朗の仲間だそうである。
 このカルト仲間の文部科学大臣は、教科書検定を厳しくすると発言していた。こんなことを言わせてよいのか。
 小野寺防衛大臣は、アメリカの情報機関による盗聴問題で、日本も監視対象となっていたことについて、「信じたくない」と言っていた。ちょっと亭主の不倫の指摘に対して言っているような言い方は気持ち悪い。
 まるで、嘘つき内閣、子供内閣のようではないか。その子供に物騒な武器を持たそうとしている状態のようである。

二 森雅子少子化担当相の危機的状況、人格崩壊の危機
 森雅子少子化担当大臣が特定秘密保護法案の担当大臣になって、人格破壊の危機に瀕しているようである。弁護士として、国民の権利を主張していた森雅子にとって、石原慎太郎でさえ杜撰極まりない法案だと言っている。少しは法律を勉強したことのある弁護士である森雅子にとっては提案した側に立つのは耐え難いことだろう。
 何のために勉強して、弁護士になったのか判らないだろう。政治家になったのも、全く主義主張がないわけでもないだろう。
 おそらく、そのような初心とか、理想とか、良心と言ったものが、本人のなかでは蹂躙されているのに違いない。安倍晋三とか、下村博文とか、小野寺といった連中は、森雅子ほど勉強したことも、理論的に詰めたこともない(それが、首相や閣僚なので日本が危ないのだが)が森雅子は、もとは違った筈だ。
 本当に悲劇的な結果が生じないように、思い切って懸命な決断をされるべきだと思う。森雅子大臣自身が杜撰で危険な法案だと判っていない筈はないのである。安倍晋三と同様のあほうでは決して無い筈だ。

贔屓の引き倒し……「たそがれの品川宿」(8月7日)の【余談】に思う

 一 贔屓の引き倒し
 「tono-taniの日記」という名前など、他所のサイトでお目にかかることは滅多と無い。それが「たそがれの品川宿」(2013/08/07)で内田樹の講演会(2013・8・2)を紹介したあとの【余談】で出て来る。tono-taniの日記が内田をはげしく口激(ママ)しているとある。激怒し、「一方的な怒り爆発」と書いている。最後に、ある種の「錯誤」さえ抱えて行なった事象への経歴詐称疑惑にこだわる、自戒に乏しい論難にどれほどの意味があるのだろうか?と纏めている。
 何のことかと思って、「tono-taniの日記」で検索すると、たそがれの品川宿にあるように、2011年9月のところに、その文があった。結構長い。しかし、あるのは内田ゼミの院生に対する(余計な)心配で終始している。口激(ママ)も、激怒も見当たらない。たしかに「ほなら、どついたろか」とは、趣味が悪い。しかし、内田の言の「(角材について)そんなものでぶたれたって痛くも痒くもない」とは、実物を少しでも見れば言えないことだ。「象徴的」というのは映像や活字だけみていた者に取って象徴でしかなかったわけだ。「どついたろか」というのは、少しは現実をみたら?程度の表現だろう。序でに言っておくと、それまでにも棒でなぐりつけるようなことは無いこともなかっただろうが、大々的にはじめたのは、67年の羽田闘争だった。不用心だった機動隊はそのときやられてしまったのだ。ゲバ棒は、プラカードに仮装していたものだ。敢えて言えば、角材は、三派全学連の象徴的存在であったとも言える。しかし、それは、実力というか「暴力」の象徴になったわけである。結果として象徴的に見えたとしても、現実的な反戦闘争をした学生たちは、「暴力学生」と呼ばれた、また、そのことを受け止めて逆に矜持とした者たちの「象徴」であるのとは、内田の言う「痛くも痒くも無い」象徴的なものとは違うだろう。品川宿は、tono-taniの「一方的な怒り爆発」と書くが、怒り爆発のようには読めない。品川宿が「極めて象徴的なものと言うのは当たっている」と言うのは、悪いけど内田に対する媚びとしか読めない。
 「経歴詐称疑惑」も見当たらない。内田の経歴は、はっきりしている。日比谷を中退して大検で東大に入ったことまで自分で言っている有名なことだ。勤務先として神戸女学院に決まるまでのことまで自分で多く語っているようである。専門的な業績がほぼ無くても、無理して業績をでっちあげたりはしない。そのはっきりした経歴からすれば、東大に入学したときには、東大全共闘は無かったよ、と書いてあるだけである。それで、内田が院生にとくとくと語っているのは、それは内田のつくった仮想全共闘に基づく話しじゃないか、と言っているのに過ぎないようである。というより、オーラル・ヒストリーと言われるものにおける初歩的な問題を言っているだけのようである。
 リサーチする場合、informantは自分に都合の良いことを言う嫌いがあるから気をつけないといけないと、あるテレビ番組をめぐる騒動で問題になっていた。実際に、リサーチする場合、初めてきくことである話でも、だいたい嘘かどうか判るものである。判るだけの準備をしておかなくてはいけない。tono-tani(2011/09/02)を見ると、そのようなことが書いてあるようである。
 実は、インタビューにおいて、内田に全共闘についてのつまらない錯誤があったのではないのか。全共闘を風俗のように認識していたのではないか。だからゲバ棒をへなへなの象徴的なものに過ぎないと「錯誤」してしまったのだろう。要するにファッションなのだ。そして、象徴的というのなら、何が象徴されることになるのか、三派全学連の場合、あえて言えば「暴力」ということになる。それでは、全共闘も場合も暴力だろう。
 「品川宿」が見たtono-taniにも書いてあったと思うが、全共闘というのは、様々なのである。そして、具体的なのである。東大全共闘は、医学部における医者養成制度の問題から起こった。日大全共闘は、学生自治の獲得闘争であった。ある日大全共闘だった人物が「日大闘争というのは、いわば公民権闘争ですよ」と言っていたと聞いて、最初、判らなかった。あの希有の大闘争が公民権闘争?と思ったのである。しかし、日大生にとって、それは切実だったのである。日大闘争のどれほど前のことだろうか、日大で新入生歓迎かなにかで羽仁五郎の講演会があったとき、体育会などが殴り込み、主催者の学生の幾人かは脳波異常などの大けがをしたことが全国紙に載っていたことがあった。しかも、処分されたのは被害者である。講演会などをして混乱を招いたという理由である。運動に火がついたのは、巨額の使途不明金かなにかであった。なぜ、あのような大闘争になったのか、自分の存在しているところでの問題を共有した人たちが共に闘うということで、組織を勝ち得たのである。それは実のある組織だった。その意味では、医者養成システムへの疑問から出発した今井澄たちの東大闘争にも通ずるところはある。今井は、地域医療を担う医者から、政治分野にまで活躍するが、生涯を医療問題に関わった。
 1969年4月、近畿大学は、当時、全国の教育者から非難をあびた中教審答申を出した中教審会長の森戸辰男の講演会を企てた。近畿大学が全国でも希な中教審依りの学校であることのアピールになるだろうし、近大にもわずかに生息する過激派の炙り出しにもなるとなるなど、多目的講演会である。そんなことは十分に承知の十数人の全共闘は、機動隊とその前に陣取る200人はいると思われる体育会系や体育会OB事務職員が待ち構える会場を目指した。声は出たか、足は竦まなかったか。シュプレヒコールは何と言ったか。とにかく無惨なリンチの場と化した。内蔵破裂などの負傷者が逮捕されて入院した。かれらは、もう絶対に学校にはもどれない。行動を起こすと決めたとき戻れないことは覚悟したことは確実である。相当の重傷で何が起こるか判らない状況である。自分の学園に留まれないことを覚悟して、自分の学園に対して何事かをしたいという思いである。自分が存在しているところ、そのものを問題にするところが全共闘に通ずるということは言える。内田ゼミの院生は、もう少しリサーチを続けていれば、とりあえずは、そのような認識を得たかもしれない。
 内田ゼミの院生が、全共闘として闘った人たちに聞きたいと思ったのなら、このような、多くの人たちからもっと聞きまくるべきだった。聞きまくっているうちに、いろんなことが判ってくるだろう、という趣旨のことがtono-taniには書いてあった筈である。抜き差しならない、共有する自分たちの状況が共闘の根拠である。それを現在する自分の課題として、自覚的に生きていくために突き進んだという人もあれば、そうではない判断、対応も当然あった。
 だから「全共闘する」というのは、変なのだ。たしか「何度でも全共闘やったるぞ」のような台詞が品川宿のprofileに載っている作品に出て来る。作品名か、登場人物名でよかったが、刊行されている作品の著者の名でtono-taniに書いてあった。今、あげたようなことからすれば、全共闘は、1人で「するもの」ではないし(だから「1人全共闘」は言葉自体矛盾である)、何度もするものでもできるものでもない。
 内田は、自分が全共闘とは、「ビラを撒いた」ことと言っているように思う。どうも、学生運動全共闘と混濁しているようでもある。そうあほうでも無い内田は、つまらないことを言い過ぎたとも思っているかも知れない。そうだとすると、この件に関しては、そんなに触れたくない筈だ。品川宿が余計なことを言うと気にする人が出てこないとも限らないではないか。贔屓の引き倒しとはそんな意味である。
 ただ、気になるのは、内田が全共闘運動というのは、国民統合運動だ、と言っていたようなことである。内田が撒いたとするビラは「真のファシスト……」とかいうものだったとあったように思う。全く面白くもないつまらない冗談を言うと思っていたが、案外、本気だったのかも知れないと今、思い直した。そうだとしたら、内田について、誤解していたことになる。

 二 たった1つのエピソード……極私的関大全共闘史(3)
 69年の7月、千里山の関大会館を150人ほどの全共闘学生が占拠した。そこからグランドで開かれる集会に登場する予定だった。バリケードを出る前にも注意を含めたミーティングを行った。隊列から絶対に離れないことなど、右翼の拉致・リンチに対する備えと同じく、密集した体制からの攻撃についての確認を行った。社会学部から書記局入りしている副議長が可愛い容貌とおよそ反対のしわがれた低い声で「いいかい、連中、殺していいから」と気合いを入れた。そのつもりで行かないと危ないのである。「三派」とかなんとか言っても、関大ではリンチの対象に過ぎなかったのである。少々のデモでも関大では、応援団や体育会(の多くが、レギュラーになれない落ちこぼれ)の乱入で混乱してしまうのである。書記局の構成員の1人文学部の吹岡の額の傷を、もうほとんど活動は学外に転じていた河田が吹岡と2人で右翼のリンチにあったときに木刀で殴られた痕だと教えてくれたことがある。「殺しまではしないとは思ったけどな…………あのときはひどかったな…」とその流血のリンチを述懐していた。河田は新聞学科だった。そのリンチを構成した者には、のち石原慎太郎とチームを組んで有名になる、日学同のキャップがいた。それが新聞学科だった。そういう状況下での「殺してもよいから」である(関大会館封鎖中にも、関大のことを知らなくて様子を見に来た他大学の学生が、リンチされ顔を腫らして逃げ込んで来たこともある)。
 案の定、関大会館から、20メートルほどで、高い襟の長い学生服の応援団員が襲って来た。全共闘など、ワッと言って逃げるものだと高を括っていたのだろう。ところが、全員がゲバ棒で迎え撃ってきたのである。不測の事態に驚いた、市處(いちしょ)とか言ったその応援団、やにわに懐から、何か出してきた。刀のようなものだった。手製の刀のように見えた。それは、笑いそうなものだったが、「三派」を舐めきっているその応援団は、十分脅しになると考えていたのだろうか、己の劣勢をみて、振りかざして来た。そこを法学部1年生で、68年の右翼に攻撃された際のトラウマに無縁な白井が、水分を吸って少々重くなっていたゲバ棒でどぅ−んと突いた。応援団にはカウンターとなった。応援団はよろめいた。そこを他のゲバ棒が突いた。大きな学生服が横たわってしまった。みんなよってたかって、それこそ息の根を止めてしまおうかとばかりに攻撃した。ゲバ棒が重なってしまったりしていた。みるみる、長ランと呼ばれる、高額の仕立て代をはずんで誂えた学生服がボロボロになっていった。本当にみるみるうちにボロになっていった。学生服の内側に、連中は「關西大學應援團副團長某」とか刺繍を入れている。あれにも随分払っていたと思うのだが、みるみるボロの一部になった。思いも掛けない事態と打撃による朦朧とした頭のまま、応援団は、本能的に横の急な土手をよじ上がり逃げていった。後日、応援団本部などを捜索したとき、本部の黒板に、「市處、全身打撲」とか、その日の被害報告として記されていた。 

 歴史教育者協議会
 内田樹の講演会が歴史教育者協議会の大会で行われ、たそがれの品川宿の管理人も講演会に参加して、その報告を書いていたら、ウチダ先生を「論難する」文が出て来たということなのだろうか。
 ウチダ先生は、數少ないリベラルな発言を躊躇なくできる人として、今日、希な人である。期待するのは当然である。講演会をして、意見を交換するのは大切である。
 ただ、気になるのは、今の小・中・高の社会科の先生方の勉強である。勉強するだけの余裕がない過酷な状態があるのかもしれない。歴史教育協議会というのは、社会科の先生方の集まりのようである。
 兵庫模試という高校入試の模試を塾の生徒が受けて来たことがあった。「インドでは牛は神の化身として敬われ……」という選択肢があって、これは正しいとされていた。ヒンドゥー教の話だから、そんな地域が全く無いとは言えないだろうが、間違いを1つ選ぶ問題で、れっきとした間違いが別にあるのである。ヒンドゥー教には、れっきとした有名な神がいらっしゃるので、そこに牛系の神様は、聞いたことが無い。模試事務局に電話すると、判りましたということであったが、塾へ行くとファックスが届いていた。大手の出版社の教科書のコピーだった。自分でもおかしいと納得したのではなかったのか、と思って、出版社に連絡した。編集の方から丁寧な電話があった。それでは、次年度から訂正されるのですね?と言うと、実は、何年かの使用サイクルの最後の年なので、次からは新しい教科書になると聞いて驚いた。いままで、現場の先生から、何もなかったのですか?と聞くと、「全くありません」ということであった。 授業していて気にならないのかと思う。
 関西の中学校で良く使用されている教科書に、アトムとウランをキャラクターとして全編に使っているのがある。被曝した広島の街をアトムとウランが案内するのには恐れ入る。先生方は、授業で何と仰っているのだろうか。
 歴史の教科書でも、明治初期の士族反乱の箇所がある。薩長土肥藩閥政府に反対した民権運動の脈絡で書いてある。ところが、有名な乱は、佐賀の乱萩の乱、最大で最後のものは西南戦争である。薩・長・肥で、つまり新政府の主力のお膝元がとくに有名なのである。つまり、特権を失ったが、理由があって(多くが無能なので)、新政府でも採用されない連中によるやっかみともとれる、つまりルサンチマンの新政府に対する妨害のようなのだ。民権運動と関連づけられては困る。そこがとても変なのである。教科書では、1877(明治10)年の西南戦争敗北で、民権運動は武力の限界を悟って、言論に転じました、みたいな書き方で、板垣退助らの民撰議院設立建白書のことを書いている。建白書の提出は、1874年、明治7年のことである。西南戦争より3年「前」のことである。ここでも、社会科の先生方が、何かを仰ったと聞いたことは無い。
 多くの生徒が使用する教科書なのである。先生が気が付かないでどうするのか。先生が勉強しないで、どうするのか。
 裁判員制度が2004年に成立して、2009年に施行された。教科書『政治・経済』には、司法権の独立は、裁判官の独立でもある、と憲法第76条③をあげて説明があった筈である。1969年の平賀書簡問題で、司法権の独立、裁判官の独立が問題になったことは、よく知られていると思っていた。
 社会科の先生方から疑問の声があがったとも聞かないし、どのように授業をされているのか想像できない。 
 言いたいのは、自分の持ち場のことをしっかり仕上げていくことからしか無い筈だということである。今日の学校の先生は本当に大変だと思う。しかし、その大変な状況こそが課題だと思う。「この国のかたち」式のことをやってもらっていては困るのである。国家は、帰結なのである、という言い方を聞いたことがあるだろう。国家概念を先行させる思考は拙いとわかってやってほしい。

追悼 島倉千代子さん

 
 歌手の島倉千代子さんが、11月8日、肝臓がんのため東京都内の病院で亡くなったというニュースがあった。小学生のころ(50年代のおわり)、歌手といえば、島倉千代子だった。ラジオの時代だった。歌は「からたち日記」だった。代表作として紹介されるのは、別の歌が多いが、島倉節とも思う高音のビブラートがとくに印象的な歌だった。
 小学校5・6年の担任が、当時出始めたテレビで、歌謡曲の世界も少し変わりそうだと言っていた。ラジオの時代はほとんど声による勝負だったからである。男性歌手なら、三橋三智也の高音や春日八郎のすこし鼻にかかった声である。三波春夫は、もうテレビだった。浪曲師の経験もあるようで、独特のパフォーマンスも熟年の女性に人気があった実感がある。
 島倉千代子は微妙である。テレビの時代になっても大丈夫かなと気にする人もあった。それは、島倉千代子を思うからの話である。発売したレコード、CDの数はとても多い。  11月10日のサンデー・モーニング(TBS)で浅井愼平が、島倉千代子が女性の繊細な、か弱さのような面を象徴しているような言い方をしていた。それは、美空ひばりを対比したような言い方でもあった。
 先に触れた高音ビブラートのもたらすイメージを言っているのだろうか。
 あれは、いつごろの話だったか。週刊誌の広告に、「それでも、島倉千代子さんに会いに行きます」みたいな記事があった。「更正して、島倉千代子さんのショーを見に行きます」だったかもしれない。少年たちは、どうして島倉千代子に憧れるのか、というような副題があったようにも思う。
 多くの虞犯少年たちにとっては「姉」だったのか。

 二
 島倉千代子といえば、巨額の借金とその返済が、ちょっと半端ではない。その借金の理由が変わっている。結婚相手だった元阪神タイガース四番バッターだった藤本の後始末だったり、眼科医の男の後始末だったり、立場は逆でないかと思うほどの相手である。なんだか男が甘えてしまうようである。
 どうもか弱いとか、そんな印象ではない。巨額の借金を返済するような弱い女はいない。有名なのが2人いるだけで、他にもいたようである。美空ひばりに、人に実印をあずけちゃだめよと言われたらしい。
 
 
 軒上泊『九月の街』を寺山修司が脚色して東陽一がメガホンをとった映画『サード』の永島敏之の母親役が島倉千代子だった。高校野球部でサードをしていたので、少年院でサードと呼ばれる永島敏之の母親役としては、島倉千代子はぴったりだった。野球少年の母親として他に考えられない存在感があった。
 意表を突かれた思いのあるキャスティングだったが、理由のあることだったのである。その存在感とは別にというか、やはりというか、戦後の日本を代表する女性歌手として存在感は当然にそれとしてあり、今、二重の喪失感を味わっているところである。

澤井繁男『若きマキアヴェリ』(東京新聞 2013年6月)

 
 10月8日に、関西大学生活協同組合『書評』№140に触れたとき、澤井繁男「若きマキャヴェリ」(『文学界』2012-7)の日本語表現には、気になるところがあることを書いた。
 それは、サヴォナローラからニッコロ・マキァヴェリ宛の手紙に出て来る「……余は毎日、翌日の説教の草稿執筆に余念がなかった」(本書なら84頁)という言い方である。「余念が無い」は「没頭している」あるいは「邪心が無い」状態を言うときの表現で、自分のことを語る言い方としての違和感であった。
 また、メディチ家のロレンツィーノがニッコロ・マキァヴェリに「……自分もサヴォナローラも、所詮、時代の申し子だということを、自戒をこめて君は知らしめてくれた」(本書なら108頁)と言っているところである。「時代の申し子」とは、時代が要請した存在だということで、自戒をこめなければならないことではない。ここでは、「一時期の人気者」くらいの意味で使いたかったのだろう。でも、「申し子」とは誤用で、「時代の徒花」くらいにすべきだったのではないか。
 いずれも、歴史的人物の手紙の言葉として、ちょっと重い表現を試みたようで、それが日本語としては違和感をもたらしている、あるいは間違えていることに気付かなかったのだろうか。
この手紙の文ではなく、地の文で「ニッコロが匙を投げてロレンツィーノが画策を委ねた人物の『参謀』役を担おうと決意した頃、サヴォナローラの運命は急速に転がりはじめていた」(本書なら109頁)とある。
 「匙を投げ」たのであれば、突き放して無関係になるだけである。「『参謀』役を担おうと決意した」のであれば、「匙を投げて」見捨てることにはならないであろう。「担おうと決意」したのであれば、「賽」を投げないといけないと思う。
 既に当該箇所の、本書における頁数を示しておいた。全く訂正はなされていない。本書の巻末に、『文學界』編集部、東京新聞出版部のスタッフの名前も挙げられている。これらの表現については、編集部や出版部の人たちも、とくに違和感を感じられなかったのは少し奇妙に思う。

 
 澤井は実績のある作家ではあるが、当初は歴史を題材にとったものを書いてもいないし、その気も無かったようである。
 創作活動と同様に、ルネサンス研究も自分の主要な活動としていることから、歴史、とくにルネサンス期を題材にした創作をはじめたそうである。翻訳の仕事も多く、イタリア語能力の高い人なのであろう。
 ところが、岩波ジュニア新書の【393】として書かれた『ルネサンス』の24頁に「ペトラルカははじめ法律の勉強をしていて、古代ローマの文献と出会うことになります。なぜ、法学か、と言いますと、古今東西を問わず、法律家は収入もよく、もし挫折しても、つぶしがきいて食いっぱぐれがなかったからです。ローマ法や教会法を研究するわけですが、その中心地は北イタリアのボローニャでした。ペトラルカはボローニャ大学でローマ法を学んでいます」とある。「つぶしがきいて食いっぱぐれがなかったからです」にはおそれいる。これは、かつての日本で 法学部志望の理由にあげられていたことである。アメリカで「つぶしがきくから」という理由でlaw schoolへ進む者はいないだろう。今の日本でもいないだろう。「法律家は収入もよく」とも言えない。
 澤井の文には、とんでもない俗説、迷信にも似た「見識」が混じるという問題がある。それがチェックされないのは何故なのだろうか。ローマ法を少しでも勉強すれば、ローマ法は、とても具体的でしかも合理的な結論を導き出したものの集積であることが分かる筈である。それは、支配とか統治にとっても必須のものなのである。合理的な思考法を学ぶのが法学なので、諸吏の生計を支える道具などでは無いというのも判る筈なのである。
 ルネサンス研究をしているという澤井にとって、ヨーロッパの歴史を理解する上で不可欠なローマ法についての凄まじい無理解は致命的である。それは、ルネサンス期を舞台とする創作においても同様である。

 
 本書の後半は「神の誘惑」という題で、トンマーゾ・カンパネッラという人物が主人公である。澤井の仕事にこのカンパネッラの著書の訳があるようで、そのような作業過程で、この創作のアイデアも熟したのであろう。
 154頁に、カンパネッラが異端審問官ピエトロ・ピニョーレに「お言葉ですが、宗教じたいがもともと心のありようを扱う非合理なものなのに、それを合理化して神学としたほうが奇怪に思います。……」という場面があるのは、唖然とする。唖然とするというのは、「宗教じたいが……非合理」だということが、キリスト教の最上級の知識人の会話として登場することである。尤も、我々、体系的な宗教になじみの無いところで生まれ育った者たちにとっては、宗教といえば呪いくらいの感覚しか無い。澤井のカンパネッラの発言はまさに、宗教はそもそも呪いなのだからというオカルトか土俗宗教の感覚による表現である。
 古代のヘブライ人が個々の利欲を越えた共通なるものを求め、確認したとき、大きな歴史的画期があったと考えるべきである。そのような神には、当然実体など無いのである。しかし、共通する規範を認識した者との間には、合理的な関係が生じるのである。その意味で、呪術的な、現世利益の宗教を脱した宗教は合理的なのである。
 澤井は、岩波ジュニア新書『ルネサンス』の12頁でも、本書200頁でも神は救けに来ない、と救けにくるもののように書いている。ヘブライ人の神は、現世利益の呪いの神では無いのである。
 現世利益の神々の世界から、共通する規範の世界への大きな変化を理解できないと、古代ユダヤ教キリスト教イスラーム教も理解出来ないのである。私たちは、ヨーロッパの文献によく出て来るゾロアスター教も、一連の呪いの宗教と思いがちである。澤井も『ルネサンス』で、無頓着に、「祭祀は火が中心で、拝火教とも呼ばれた」(54頁)と書いている。なぜ、『ツァラトゥストラはかく語りき』をはじめ、ゾロアスター教が出て来るのか。それは、人類が善と悪についての認識をつよめたことがゾロアスター教にみられるからである。古代ユダヤ教に先行する宗教なのである(旧名東洋工業といった自動車会社マツダのアルファベット表記がMAZDAというのがゾロアスター教の善神であるマヅダ神の表記に由来するMAZDAであったのである。勿論、マツダというのは東洋工業の事実上の創業者である松田重次郎からとったものだが、MATSUDAでもMATUDAでもなく、MAZDAとしたのは、アフラ・マズダーにちなんだ表記であることを私たち日本人はあまり知らないのも、私たちが宗教に対して疎いことを物語るものである)。

 
 「私は太陽を奉ずる。太陽こそ万物に光を賦与する神なのだ」(190頁)などとカンパネッラがどこかで言っているのだろうか。キリスト教の知識人がかかる実体的な神を想起するようなことがあると澤井は思っているのだろうか。出エジプト記において偶像崇拝は禁止されている。
 このようなキリスト教キリスト教知識人の登場するものを、ドストエフスキーを研究していると自認する関西大学で澤井の同僚になる近藤昌夫は気にならないのだろうか。本当は気になるから「言葉の祭壇画―錬金術師澤井の結晶」というタイトルで正面からとりあげるのを避けたのだろうか。
 そうだとするなら、澤井の怪しい宗教観、認識に触れることなく、学生が読むことを前提にした雑誌に誤魔化したような文を書くのは、教員としての職責を果たすことから迂回したこと、あるいは退去したことになってはいないか。